ところが、ヨンシクの認識だけはまったく違っているのである。
「身寄りのない未婚の母が、ピルグ(注:ドンベクの息子)を立派に育てながら、店を切り盛りしている。責任感もあるし、道徳的に生きている。そのうえ、誰よりも真面目で一生懸命だ。それって、称賛に値することですよ。普通だったらとっくに挫折しています。だから忘れないで……ドンベクさん。あなたは誰よりも強くてすばらしいひとです。誰よりも立派です」
先にも書いたようにヨンシクは、ドンベクに好かれるために褒め言葉を並べているわけではないし、自らの願望を投影していたり、「不幸な女」に同情しているわけでもない。なぜならドンベクは、尊敬されるべき立派で強い人間として「すでに生きている」からだ。この事実をヨンシクはシンプルに言語化しているだけなのである。
言い換えれば、ヨンシクにとって、ピルグもカメリアも不幸の条件などではなく、むしろドンベクが尊敬すべき人であるという事実の揺るぎない証拠なのである。
「分かりませんか? 彼女のすばらしさが」
ドンベクが忘れてしまわないように彼女への称賛を繰りかえすヨンシクにとって、未婚の母であることも、水商売の営みも、ドンベクのことを「好きな理由」でしかないのだが、しかし、母に捨てられた過去に対してだけはまったくの無力である。
ドンベクにとってピルグを育てることは、自分と同じ「暗さ」をピルグには背負わせない、負の連鎖を断ち切るための戦いを意味しているからだ。つまり、ドンベクの戦いとは、自分を捨てた母と同じことを繰り返さないことなのである。
一方のヨンシクの母は、ヨンシクが幼いころに夫を亡くしたシングルマザーであり、女手ひとつでヨンシクと二人の兄を「影のない」まっすぐな人間に育てた人物である。つまり、母に関するドンベクとヨンシクの体験には決定的なズレがあるのだ。
しかし今作が優れているところは、ヨンシクに自らの無力さを否定させるのではなく、無力なままでいることの可能性を提示したところにある。その可能性とは、ドンベクの「隣にただ座っていること」である。
カメリアのテーブル席はもちろんのこと、街を一望できる高台、玄関前の小さな階段、バスの停留所や駅のベンチ、などなど。座る場所はどこでもいいのだ。
60分×20話の中に繰り返し現れるこの時間は、男たちに食事と酒を提供し続けるドンベクの日常を一時的に断ち切り、つかのまの休息を与えているように思える。
さらに言えば、ドンベクの隣に座るときにヨンシクは、殻を外したエビ、袋から取り出したカステラや飴玉、キャップを外した水のペットボトルなどを、そっとドンベクに差しだすのである。
「与える」側として生きるドンベクを「与えられる」側に変化させるヨンシクのささやかな身振りと、ケジャン屋を営むヨンシクの母の身振りは重なるように思えるのだけど、それを考えるには字数が尽きてしまった。
ヨンシクから素晴らしさを伝え続けられるうちに、彼女自身も、他人に褒められることによって初めて自分の強さに気づき、本来持っていたはずの自信を取り戻す。そして、今まで目を背けてきた自分の生い立ちや息子の父親と対峙する勇気をもつ。
ただ、そのとき隣にいるのは常にヨンシクで、ドンベクが自らの「事実」(自分が立派で強い人間だということ)を忘れてしまわないように全力で伝え続けながら、彼女に降りかかる理不尽には全力で怒り、無力さに打ちのめされているときには一緒に泣き、幸せなときには一緒に喜ぶのである。そもそもヨンシクは、ドンベクと一緒にいられるだけでいつだって無防備にニコニコ顔なのである。そんなヨンシクを見てまた、ドンベクもニコニコと笑顔になる。それがこのふたりの、すべてなのだ。
そのことが彼女の人生に大きな変化をもたらし、やがて、このふたりの思いが町の人々までもをも巻き込み、「わたしたち」の思いとなって、最終回にちょっとした奇跡を起こるのだが、それがこの韓国ドラマが提示したひとつの可能性だという奇跡に、わたしたち(視聴者)は心打たれるのだろう。
(gojo)
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