
『大豆田とわ子と三人の元夫』Instagramより
『花束みたいな恋をした』が鮮烈に大ヒットを記録した脚本家・坂元裕二が、その追い風に乗りながら『anone』(日本テレビ系)以来、3年ぶりに連続ドラマに帰ってきた。
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4月13日から放送を開始し先週の第6話で“第1章”が幕を閉じた『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系、以下『まめ夫』)。最後には予想だにしない展開が待ち受けていたわけだが、視聴者はここから何を受け取ればよいのだろうか?
『カルテット』(TBS系)に似てジャンルレスで一見して“なんだかよくわからないドラマ”の判断は最終話まで保留したいところだが、ひとまず現状の全6話までをもとに、何が描かれ、そして“描かれてこなかったのか”を考えてみたいと思う。
“わかりやすさ”の影に潜むおぞましさ
伊藤沙莉によるナレーションの挿入やオープニングでその回のハイライトを見せるという手法は、表向きにはとても“わかりやすい”演出のように見える。『カルテット』などがその散りばめられた伏線から“ながら見厳禁”と言われたのに反して、『まめ夫』はながら見でも大枠の物語を追うことができる親切設計になっている。
また、坂元裕二のドラマの登場人物たちを覆ってきた“切実な生きづらさ”も、本作においては“あるある”として受け止めやすいポップな描き方に終始している。弁当の醤油小袋を飛び散らしてしまう大豆田とわ子(松たか子)。「人生が嫌になるやつ」「人生が嫌になったので、(海に)立ち寄ってみた」。そんなナレーションが重なることで、さらに軽さが浮き立つだろう。
しかし、そうした軽い描写の一方で序盤から何かがずっと引っかかる。その正体を具体的に掴むことになるのは第5話以降でのことだが、思えば第1話から『まめ夫』には、“わかりやすさ”の影に潜んだおぞましいものが見え隠れしていたように思うのだ。奥歯に挟まったゴマが急に出てきて味がするみたいに、それはずっと違和を孕んでいる。
たとえばまずは、第1話の序盤も序盤に描かれる「名前」に関するシークエンスが、さらっと流れるだけに気にかかった。いとこの結婚式に参列したとわ子が、「田中さん」「佐藤さん」「中村さん」と異なる名字で3回呼ばれる場面のことだ。どれも彼女がかつて名乗ったことのある名字。間違ってはいない。しかし、だからこそ、体感的に「おかしい」。簡単に言えば、選択的夫婦別姓のような制度があればこんな違和感には陥っていないだろう。名前ではなく名字(「家」の所属)で呼ばれるという風習や、それが夫の名字、しかもこの場合別れた元夫の名字であるというのが、さらに「おかしい」。
『カルテット』で松たか子が演じていた人物が、「巻真紀」→「早乙女真紀」→「山本彰子」と名前が変わっていったことも思い出さずにはいられない描写だ。離婚してもなお縛られる「名字」って、あるいは「名前」って、一体なんなのだろう。