坂元裕二脚本『大豆田とわ子と三人の元夫』はなぜ“死”を空洞化して描くのか

文=原航平
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日常を描くことでしか空洞は埋まらない

 ドラマや映画が“死”を描くとき、過剰に重く、“泣ける話”として処理されることがある。そのことに違和感を抱いたことがある人は少なくないだろう。それは時として、想像の余地がないままに感動的なドラマだけが提示されるからである。

 コロナ禍にある現在、日々SNSやテレビには“死者の数”が映し出されているが、その“可視化されている”ことに逆行して、本当の死はひとつも見えないでいる。まるで遠い遠い世界の物語、私たちはずっと“死の軽さ”と表裏一体の日常を生きていて、時が経つにつれより一層麻痺していくことを止められない。可視化されたものは日常化し、やがて想像力が働かなくなってくる。

 『まめ夫』は、その“空洞化した現実”こそをそのまま描こうとしているのではないか。前段では“描かれていない”ことに関する話を長々としてしまったが、では改めて『まめ夫』が一貫して何を描いているのかと言えば、“ただそこにある日常の営み”なのである。自分の石で相手の石を囲んで取る囲碁のように、外側をなぞることで空洞の中身を想像させる。

 たとえば、母の葬儀の後、道を歩いていたら「布団が吹っ飛んだ」瞬間に出くわしたこと。「人間って走る必要ある?」と悪態をついた中村慎森(岡田将生)が、とわ子のために走ってみせること。とわ子の悪口を言う青年に出くわし、反論しようとするもののうまく言葉が出てこない佐藤鹿太郎。「一生後悔すると思う」と言いながら、三ツ屋早良(石橋静河)にはなびかない田中八作。かごめが描いた漫画を読みながら、お風呂にだしの素を入れてしまう彼女のことを思い出す大豆田とわ子……。

 簡単に“意味”に回収されるものではないし、そのすべてが、「楽しいまま不安。不安なまま楽しい」とあるとき発されるように、曖昧で複雑な感情を宿している。

 それだけが“空洞化を埋める”手段であるかのように、とわ子はかごめのパーカーに紐を通し、「私の葬式なんてどうせ雨降りだ」と悲観していたかごめの葬儀の日が抜群に晴れたことをして「やったね、ざまぁみろ」と言葉を空に投げかける。葬儀のあと出社してからかごめの家へ訪れ、冷蔵庫にある食材で料理をつくって食べる。漫画を読みながら、泣きながら、ごはんを食べる。共作した過去を思い返しながら封筒に漫画を入れて糊付けし、ポストに投函する。

 ただそこには日常があって、“日常があった”という記憶だけがある。それが、このドラマの“生”と“死”の描き方である。

 母の死の喪失感から始まり、親友の死の空虚さで閉じられた『大豆田とわ子と三人の元夫』第1章、その約2カ月間の物語。こうして振り返ってみても、1年後に飛んだ第7話から始まる第2章の先行きはやはりまったく見えない。しかしそれが、何が起こるかわからない人生みたいで、不安もありつつ心底楽しみなのだ。

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