クィア映画批評を先駆けた石原郁子は、『燃ゆる女の肖像』にみる別離の愛をどう語るのだろうか

文=久保豊
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 1994年1月下旬号の『キネマ旬報』によるジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』(The Piano、1993年)特集は、映画評論家・石原郁子の作品評で始まる。『映画をとおして異国へ ヨーロッパ/アメリカ篇』(2000年、pp.122-127)にも収められた本評論において石原は、19世紀半ばにスコットランドからニュージーランドへと親が決めた結婚のために移住する女性エイダ(ホリー・ハンター)がピアノで奏でるエロティックな愛憎劇を「人の世の神秘を湛えた奥深く力強い愛の宝庫」と呼んだ(2000、 127)。

 音声言語を用いず、娘の通訳を介して手話や筆談で話すエイダは、開拓を目指す入植白人の夫スチュアート(サム・ニール)が海辺に置き去りにした彼女のピアノと土地を交換する現地の男ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に、「黒鍵の数だけレッスンを──危険な愛の揺らめきを孕んだレッスン」を施していく(石原 2000、 124)。石原は、エイダとベインズの間に次第に香り立つエロティシズムと情愛を、湿り気、泥道のぬめり、落ち葉や動物の死体が腐った匂いといった原生林のイメージと対比することで、「凄艶なまでに鮮烈」だと書く(2000、 124)。

 石原の『ピアノ・レッスン』論でもう一つ興味深い箇所は、ベインズに会うことを禁じられ家に閉じ込められたエイダが夫に触れる場面の記述だ。石原は、エイダが「ピアノを弾くように」スチュアートの「肌を愛撫する」ことで、「彼女自身の感情の基底を模索する」と読み解く(2000、 126)。エイダは無防備にはだけられた夫の柔らかい尻に指を這わせる。尻の割れ目へとエイダの指が進むと、スチュアートは怯えたように、妻へ抱かせろと懇願する。だが、彼の身体には彼女がピアノの鍵盤やベインズの身体に感じる硬さがない。だからこそ、彼女は夫に愛を見出せず、拒絶するのだ。

 夫に斧で指を切り落とされようとも苦痛の声すらあげずに耐えるエイダは、父に決められた結婚とその相手に対する服従へ抵抗する情念に満ち溢れている。エイダが奏でる権威に対するそのような抵抗の調べに石原は惹かれたのかもしれない。そのような関心は『ピアノ・レッスン』論から2年後に書かれたクィア映画論『菫色の映画祭 ザ・トランス・セクシュアル・ムーヴィーズ』において、次のように体現されている。

 「秩序をおちょくり、権威をからかい、体制を刺激し、お固く安定したがる社会を絶えず『これでいいのか』とかき回す、淫らなまでの活力。そして、多数者・強者であることにあぐらをかいている人々にはない、少数者・弱者であるがゆえの繊細な美しさ」(1996、 11)。

 マイノリティたちが有するマイノリティ性に「繊細な美しさ」を見出すナイーブさは留意が必要である。しかしここで注目したいのは、弱者たちの存在を周縁に置きつつ、その存在を利用することで維持される秩序や権威に対する挑発と転覆の実践の手段として、石原がクィア映画に価値を見出し、強く惹かれていたという点だ。

 石原は日本国内のクィア映画批評の先駆けである。『季刊リュミエール』、『骰子』、『キネマ旬報』といった批評誌や文芸誌へ寄せられた彼女の評論からは、強制的な異性愛の規範によってその人生を抑圧され、不条理を受けもがく、あるいは軽やかに抵抗してみせる人々の鼓動や息づかいが聞こえてくる。石原はそれら一つ一つへひたむきに耳を傾け、自身の核へとたぐり寄せ、輪郭に触れ、体温を感じながら、彼女自身の映画体験を白紙の上に描いていったのだろう。

 1980年代から1990年代までの映画雑誌、文芸誌、映画パンフレットにおいて、クィア映画として現在よく知られる作品について日本公開時にどのような言説があったのかを調べると、必ずと言って良いほど、石原の名前にたどりつく。『JUNE』の小説家としても活躍していた石原の映画評論は、1990年代初頭のニュー・クィア・シネマの台頭、および日本の「ゲイ・ブーム」で公開されたレズビアン映画やゲイ映画だけでなく、広義のクィア映画へと必然のごとく惹かれ、その視覚と聴覚で感じ取った世界を言語化していったのだ。

 石原の文章を2020年代に読み返すと、登場人物の心情、音楽、空間設計などを表現する石原の言葉選びは秀逸で、同時代の読者たちは彼女の評論を通じて映画を「視る」喜びを心から味わうことができたのだろうと想像できる。

 石原の『菫色の映画祭』以降、日本語で書かれたレズビアン映画、ゲイ映画、トランスジェンダー映画、クィア映画に特化した論集は『虹の彼方に―─レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む』(出雲まろう編、2005年、パンドラ)と『「百合映画」完全ガイド』(ふぢのやまい編、2020年、講談社)をのぞけば、竹村和子、村山敏勝、鈴木みのり、斉藤綾子、菅野優香、溝口彰子、児玉美月といった個々の論者らによる仕事によって、映画におけるジェンダーやセクシュアリティをめぐる権力構造は映画評論を通じて批判的に問い直されてきた。

 そのような映画評論の土台を形成する一端を担った石原郁子は、もうこの世に存在しない。

 「愛」という言葉が頻出する石原の映画評論を読めば読むほど、もし彼女が生きていてこの作品を観ていたら、どのように愛を語っただろうか、と時々想像することがある。そんな一本がセリーヌ・シアマ監督のレズビアン映画『燃ゆる女の肖像』(Portrait de la jeune fille en feu、2019年)だ。

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© 2019 Lilies Films / Hold-Up Films & Productions / Arte France Cinéma

 画家マリアンヌ(ノエミ・メルラン)の回想として語られる『燃ゆる女の肖像』の舞台は、18世紀フランスのブルターニュ地方に浮かぶ孤島。結婚を控えて自死した姉同様に結婚を拒む貴族の娘エロイーズ(アデル・エネル)の見合い用に肖像画を伯爵夫人に依頼されたマリアンヌは、画家である事実を隠してエロイーズを近くで観察し、こっそりと肖像画を仕上げる。しかし、正体を明かした上で披露した肖像画はエロイーズに生命が感じられないと辛辣に批判される。残された5日間で肖像画を完成させるため、今度はエロイーズがマリアンヌのモデルになると承諾する。

 石原がかつて書いたように、『ピアノ・レッスン』が鍵盤に触れる、男の身体に触れるエイダの官能性の物語であったとすれば、『燃ゆる女の肖像』は二人の女が情熱的に互いを見つめ合う視線の映画である。シアマ監督はマリアンヌとエロイーズの関係がどのように変化するか、その機微をPOVショット、ツーショット、そして切り返し編集ショットの使い分けによって表現し、男の視線(male gaze)を介在しない女同士の視線を描き出す。

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 注目したい場面が2つある。一つはマリアンヌがクラヴィコードでアントニオ・ルーチェ・ヴィヴェルディの《四季》から<夏>を演奏する場面だ。椅子に腰掛け、演奏を始めるマリアンヌはクラヴィコードを覆った布の間から手を入れ鍵盤に触れる。エロイーズは鍵盤全体が見えるように、そして普段は隠された何かが見えるように鍵盤全体から布を剥ぐと、マリアンヌの隣に座る。二人を正面から捉えたバストショットの背景には暖炉の炎がシャロウ・フォーカスで揺れているのが見える。別離の前夜、エロイーズはマリアンヌに初めてキスをしたいと思った瞬間をずっと覚えておくと言うが、音楽を奏でるマリアンヌを、静かに興奮を隠せない眼で凝視するこの瞬間こそが、後景で燃える炎の情熱に象徴されるように、マリアンヌの唇を貪りたいと願った瞬間ではなかったか。

 2つ目の場面は、本の28ページにマリアンヌが自身の裸の肖像を描く場面だ。紙と擦れる色鉛筆と暖炉のパチパチという音に満たされた静寂の中、マリアンヌはエロイーズに見つめられながらエロイーズの陰部に置かれた丸い鏡に映る自分の姿を頁の空白部分に描いていく。

 「D’OVIDE LIV. X.」という記述から、このページは詩人オウディウスによる『変身物語』の第10巻の一節だとわかる。ほんの一瞬だけカメラがクロースアップで文字が読める程度にページへ焦点を合わせる。フランス語を読む限りでは、おそらく「オルフェウスの歌:アドニスの死」の最後の場面だ。簡単に訳すと以下のようなことが書かれている。

 「風が吹いて、ザクロがつけるような真っ赤な花が咲く。けれども、その花は長くは続かない。なぜなら、その花を咲かせた同じ風が今度は散らせてしまうから」

 マリアンヌとエロイーズはお互いにとって風であり、咲き、いずれ散りゆく花である。短い期間で燃え上がった二人の愛は肖像画の完成によって終わりを迎えるのだから。

 しかし、別離の後も二人は愛に生き続けていたはずだ。画廊で目にする少女と並んだエロイーズの絵画に「28」を見つけたとき、マリアンヌは両目を濡らし、かつての情愛をぐっと笑顔で飲み込む。画廊にいる人々の中には、男性美術批評家たちも多くいるように見える。だが、エロイーズの絵画に向き合うマリアンヌの背景に映る人々の姿はぼやけている。どんなに男性美術批評家たちが蘊蓄を傾けても、「28」の意味、そしてそのページに広がる愛を知るのは彼女だけなのだ。

 また、映画は、オーケストラの<夏>を聴きながら涙を浮かべるエロイーズの横顔を捉えた長回しで終わる。遠くから彼女を見るマリアンヌのPOVショットがだんだんとズームインし、クロースアップで愛した人を見つめる。エロイーズが涙を浮かべながら、また時にぎゅっと目を瞑って聴いているのはオーケストラの重厚な演奏ではない。彼女が反芻しているのは、かつて愛したマリアンヌと口づけをした音や感触、肖像画を描く音、暖炉で木が燃える音や本のページをめくる音、トランプゲームではしゃぐ笑い声、海の音、そしてマリアンヌが閉めた扉の音だろう。それらすべてが官能的な愛の調べなのだ。

 『燃ゆる女の肖像』でマリアンヌが「28」の数字を見つめる描写に想起させられた短編小説がある。『アフリカの日々』(1937年)や「バベットの晩餐会」(1958年)で知られるデンマークの作家イサク・ディーネセンが1957年に出版したLast Talesに所収された「白紙」(”The Blank Page”)だ。

 ポルトガルのある王族に生まれた王女たちは、初夜の前に純潔の修道女たちが織った最高峰のシーツを贈られ、初夜を迎えた翌朝、血のついたシーツをバルコニーから掲げ、純潔であった証を示さなければならない、とある老婆が語る。シーツから裁断された証の部分は王女の名前が刻まれた黄金の額縁に入れられ、歴代の王女たちの額縁と共に画廊で飾られる。体液が染み込んだ証の形を眺め、修道女たちは占いや物語を夢想する。

 しかし、そこには名前のない真っ白なシーツが一枚だけ飾られている。「端から端まで雪のように真っ白な、一枚の白紙」(”The Blank Page” 1993, 104)。この白紙の前に、修道女たちは立ち尽くし、白紙の物語を前に、深い思考に浸る。彼女たちは、その白紙の上に、どのような愛(の拒絶)を想像するのか。

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 『燃ゆる女の肖像』のマリアンヌとエロイーズはキャンバスを白紙に残すことはなかった。肖像画の完成は二人の別離を意味するものの、二人の女は二人の意志でキャンバスを埋めることを選択する。白紙の上に愛の物語を描くのは、他の誰でもない、マリアンヌとエロイーズなのだ。

 愛の人、石原郁子であればどのような物語を白紙の上に綴っただろうか。

引用文献

Dinesen, Isak. “The Blank Page.” Last Tales. New York: Random House, 1993, pp. 99-105.
石原郁子『映画をとおして異国へ ヨーロッパ/アメリカ篇』芳賀書店、2000年
    『菫色の映画祭 ザ・トランス・セクシュアル・ムーヴィーズ』フィルムアート社、1996年.

*『ピアノ・レッスン』はDVD・Blu-rayおよびAmazon Prime Videoなど動画配信サービスで視聴可能。『燃ゆる女の肖像』は2021年6月頭にソフト販売が開始される。

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6月2日発売 『燃ゆる女の肖像』 価格:¥4,180(税込) 発売・販売元:ギャガ © 2019 Lilies Films / Hold-Up Films & Productions / Arte France Cinéma

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