
写真:Motoo Naka/アフロ
連載「議会は踊る」
私は普段、個人的に記事を書き、個人的にツイートしている。つまりそれは、自身の発言によってなにか問題が起きたとしてもその責任は私に帰着するということだ。
私はなんの立場も代表していないが、自分の発言には責任が伴う。その責任は自分で取らなければならない。
しかし、政治の世界においては少し事情が異なる。「個人としての発言」と「公的な立場としての発言」は別のもの、とされる。そしてどうやら、個人として発言にしたことについては責任がない、ということになるらしい。
それ自体は悪いことではない。例えば、ワクチン担当大臣が「私は麻婆豆腐は辛いほうがいい」と述べたとしても、おそらく、麻婆豆腐に対して公的な立場として述べたと考える人はおらず(ワクチン担当兼麻婆豆腐担当大臣でない限り)、個人の好みだと理解するだろう。
もしワクチン担当大臣が、ワクチンについてツイートしたとすれば、一般的にはそれは、「ワクチン担当大臣として」ツイートしたと考えるだろう。なぜなら、ワクチン担当大臣がワクチンについて「私的に」発言することは、大臣という職責を考えればありえないことだからである。
しかし、どうやら、今の政権においては、大臣が自分の職域に関わることに関して発言したとしてもそれは「個人として」である、という理屈が通ると考える人が多いようだ。
そして、個人として発言したことについてはいちいち説明しなくても良い、と考えている人が、少なからずいる。
例えば、上川陽子法務大臣は、入管において亡くなられた(率直に言えば、入管職員に殺害されたと言ってもいい)スリランカ人女性の遺族を迎えるに当たり、「個人として」会うと発言された。
一般論から言って、いや、どのようなケースを考えても、法務大臣が法務省で、法務行政に関わることに関連して当事者と会うときに「個人として」会うということは考えられるだろうか?
個人としての大臣に会ったご遺族の気持ちは、いかばかりかと思うと胸が痛む。
たとえば、あなたが購入したお弁当に異物が混入していた。お弁当屋さんに言って「責任者と話したい」と言う。店長が出てきて「お話は伺いますが、あくまで個人として伺います」などと言われたら、どう思うだろうか。
同じ週に、中山泰秀防衛副大臣は、イスラエルとパレスチナの紛争に関連して「イスラエルにはテロリストから自国を守る権利があります。私達の心はイスラエルと共にあります」などとTwitterで発言し、批判された。見解を問われた岸信夫防衛大臣は「個人としての見解」などと発言した。
副大臣とはいえ、防衛省を代表する政治家が、まさに職責の範囲である紛争に関連して発言したことが「個人の発言」であることはありうるだろうか。
考えてみれば、政治家の問題発言や内閣の見解と一致しない発言を追求され、「個人の見解」として逃げられるということが、この間あまりに常態化していなかっただろうか。
憲法記念日に総理大臣が「改憲への意気込み」を語る。新聞で総理大臣が憲法改正案を語り「熟読して」と逃げる。「私は今ここに行政府の長として立っているのだから、自民党総裁としての見解は答えられない」と逃げる。
しかしながら、総理大臣としての発言であろうが、自民党総裁としての発言であろうが、1人の人間であることは変わりがない。それは政治家として発言したならば政治家の発言である。別にどの立場で発言しようと好きにすればよいが、その発言の責任から逃げる事ができない。
にもかかわらず「あれは◯◯の立場からの発言であるから」という発言をすることで逃げるというのは、政治家として卑怯極まりない態度である。
一体、こんな風潮を作ってしまえば誰なのだろうか。私の脳裏には、山口県あたりにゆかりのある一人の男性の顔が浮かぶが、もちろん責任はお一人にあるだけではない。そのような逃げの発言を許してしまった立法府議員、そしてメディアにも大きな責任があることは言うまでもない。
自分の発言に対する責任は、自分で取る。そして、その発言はどのような立場から発言されたものであろうと、しっかりと説明責任を負う。一般の人間が出来ることが、なぜ政治家には出来ないのだろうか、不思議に思うところである。