
「Nike Japan」公式サイトより
「Nike Japan」の公式Twitterアカウントにて公開されたCMが、ネット上で物議を醸している。
5月28日、「Nike Japan」は1本の動画とともに<今までは「女性らしく」なろうとしてた。だけど、今はもう、何にでもなれる時代。新しい未来を生み出すまで、前に進み続ける>との文章をTwitterに投稿した。
今までは「女性らしく」なろうとしてた。だけど、今はもう、何にでもなれる時代。
新しい未来を生み出すまで、前に進み続ける。
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— Nike Japan (@nikejapan) May 28, 2021
約2分の動画は、エコー検査を受けたある夫婦が、医師から「子どもの性別が恐らく女の子」と告げられるところから始まる。最初は嬉しそうにする二人だが、すぐさま表情が曇ってしまう。
<打ち合わせには入れたけれども、発言させてもらえなくて>という声とともに、妻が思い浮かべたのは、会議で言い合う男性に挟まれ、何も言えず困惑する表情を見せる若い女性の姿。
続けて夫は、背後を気にしながら夜道を歩く女性の姿を思い浮かべる。
妻が母親と祖母に「お腹の子が女の子であること」を伝えると、母親の頭にはピアノの前で立っている少女、祖母の頭にはエプロンと掃除用のゴム手袋をつけ、キッチンに立つ女性の姿。「女性である」という理由でピアノを習わされたことや、家事の担い手とさせられたことを示しているのだろう。
親戚と思われる男性にも、お腹の子が女の子であることが伝えられた。それを聞いた小学校低学年くらいの息子は、残念そうな表情を浮かべる。
場面は切り替わり、友人たちから妻がお祝いされる場面へ。囲んだケーキに立つフィギュアが<日本の男女には、43.7%の所得格差があるんだって。知ってた?>と語りかける。
それを聞いて友人たちが<本当だよ、女の子って大変だよね>と言い合うが、それを聞いた妻は<いい加減にしてよ、女の子だってなんでもできるんだから!>と声を荒げる。
その後、破水して病院に向かう女性の姿と、野球をする女性、相撲をとる女の子、大坂なおみ選手の活躍を放送するテレビ、政治の場で活躍する女性……など様々な場面で活躍する女性の姿が交互に登場する。
そして、無事生まれた赤ちゃんに対し、母親は<ねえ、あなたは何をやりたい?>と話しかけ、CMは終わる。
このCMには「勇気づけられる」など肯定的な意見が見られる一方で、「言いたいことはわかるけれどもモヤモヤする」「なんかズレてる」と否定的な意見も散見される。
応援してるつもりでも、問題を透明化している
CMの後半部分で描かれる、今まで女性が少なかった場で女性が活躍する姿は、選択肢の道しるべにもなっており、エンパワーする効果があるだろう。
しかし、CM前半で提示されていた性差別の問題は社会の構造的な問題であり、女の子たちの努力だけで解消できるものではない。
CM内で挙げられていた差別を振り返りながら、問題点を挙げていこう。
まず、打ち合わせで発言できなかったという女性。動画内で映っているのは2,3人の男性であり、会議の場に女性が少ない、もしくは一人であることを描いていると見える。女性を一人だけ話し合いの場に入れ、その一人を「女性の意見」「女性目線」として女性代表にしてしまうことは、現実でも問題視されている。上の立場にいる人々が意識的に会議に女性を増やすなど構造的問題を解消しなければ、会議での発言のしにくさは変わらないのではないか。
今年2月に注目を集めた東京五輪・パラリンピック組織委員会の元会長・森喜朗氏の女性蔑視発言のように、「物言う女性は面倒」といった差別的な風潮も残っている。こうしたことも会議で女性が発言しにくい空気を作っているだろう。
二つ目に描かれた、夜道で女性が背後を気にしながら歩くシーンだが、女性が“女性らしい”とされる選択肢以外を選びやすくなっても、夜道を安心して歩けるようにはならない。女性が性暴力のターゲットされやすいことは、差別の問題の一つであるが、その原因は女性ではなく加害者側にある。
三つ目に男女間の所得格差について。これも言うまでもなく、社会構造の話である。社会構造が変わらないままで「何にでもなれる時代」と女性を応援しても、「所得格差は女の努力が足りないから」という自己責任論に結びついてしまうのではないか。
「女の子だって何でもできる」とは言えない現実で起きている女性差別
道を切り拓いてきた女性たちの姿は希望になるが、そうした人々は性差別のある社会の中で傷つきながらも努力をしてきた。社会構造を変えなければ「同じような大変な思いをしながらがんばって!」と言っているようなものである。社会構造の問題を透明化したまま、女性の背中を押している図になってしまったため、違和感を覚えた人が多かったのだろう。
2018年に発覚した医学部の入試差別、女性議員へのセクハラ、アスリートの性的画像の悪用、都立高校入試における男女別定員制など、女性が差別的状況に置かれている場面は多々あり、現状のままではとても「女の子だって何でもできる」とは言えない。
「女の子がなりたいものになれるような社会」を目指そうとする動画の方向性には賛同できるが、本当に男女が平等なスタートラインに立てる社会であるのか、投げかけるべきは女性や女の子ではなく、社会に対してではなかろうか。