【シリーズ黒人史8】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~キング牧師・マルコムX

文=堂本かおる
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白人の恋人との別れ

 郊外の恵まれた黒人地区で育ったMLKだが、幼い時期に人種差別の洗礼を受けている。自宅の向かいに、白人が経営する店があった。店主一家はそこには住んでいなかったが、当時3歳のMLKと同い年の息子も頻繁に店に連れて来られていた。MLKと白人の幼児は仲良く遊び、白人店主もそれを許可していた。

 ところが2人が6歳となり、それぞれ白人の小学校、黒人の小学校に入学となった時、店主は2人に「もう一緒に遊んではいけない」と通告した。未就学児の生活はある意味、社会と隔絶されており、その時期なら息子が黒人と遊んでも店主は見逃すことができた。実のところ自分が店番をしている間、遊び相手として都合よく使えた。しかし学校という社会の枠組みの一員になった以上、「白人と黒人の隔離」という、絶対に侵してはならない社会のルールを教える必要があった。

 6歳のMLKはこの出来事に深く傷付き、白人を憎んだと言う。

 とはいえMLKは博愛精神に基づくキリスト教の家庭に育ち、大学では南部を離れて自由な風土を味わっている。神学校時代には白人の恋人が出来、若きMLKは結婚をも考えた。恋人のベティは母親が神学校の栄養士であることから母親と共に校内に住み、近くにある別の大学に通っていた。神学校はリベラルな校風であり、2人が校内で親しく会話することに問題はなかったが、当時、多くの州で異人種結婚は違法であり、2人も校外で恋人として振る舞うには大きなためらいがあった。

 MLKの友人たちは白人との結婚がもたらすトラブルを憂慮し、MLK自身も親に白人の恋人を紹介する勇気を持たなかった。MLKとベティは深く愛し合っていたが、MLKは最終的にベティとの別離を決心したのだった。

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キング牧師と妻のコレッタ・スコット・キング 1964(wikipediaより)

 その後、ボストン大学に進んだMLKは友人を介して、ボストンにある音楽大学でオペラ歌手を目指していたコレッタ・スコットと知り合う。2人はMLKのハーバード聴講生時代に結婚し、1954年、牧師夫妻として南部アラバマ州モンゴメリーのデクスター・アヴェニュー・パプティスト教会に赴いた。

 アラバマ州はコレッタの故郷だった。MLKも南部ジョージア州の出身だ。ボストンで自由を謳歌した若い夫婦にとって、根深い黒人差別が残る南部への帰還は容易い決断ではなかった。

マルコムX

 MLKの誕生に先駆けること4年、マルコム・リトル(マルコムXの本名)は1925年5月19日、ネブラスカ州オマハで生まれている。父親のアール・リトルは牧師だったが、MLKの父親のように特定の教会所属ではなく、あちこちの教会で説教をする”レイ・スピーカー”と呼ばれる説教師だった。昼間はあらゆる仕事をして生活費を得ていた。

 母親のルイーズはカリブ海のグレナダからの移民だった。当時のグレナダは英国の植民地であり、ルイーズの母親は白人にレイプされてルイーズを産んでいる。そのためルイーズは白人として通る肌の色であった。

 ルイーズは20代前半でカナダに移住し、そこでの黒人運動を通じてアメリカ人のアール・リトルと知り合って結婚し、夫と共に米国へ移っている。ルイーズはグレナダで教育を受けており、英語、フランス語、島のクレオール語を話せ、夫よりも教養があったとされている。

 当時、アメリカではジャマイカ出身の黒人運動家マーカス・ガーヴィが絶大な支持を得ており、アールとルイーズも深く傾倒していた。特にアールは盛んに黒人運動を続けており、そのため自宅を放火されるなどKKKからの迫害を受け、夫婦は各地を転々とせざるを得なかった。2人は7人の子供をもうけているが、ルイーズは4人目のマルコムを身ごもっていた時、夫の留守中に自宅を襲いに来たKKKを果敢に追い払ったエピソードを持っている。

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マルコムX 1964(wikipediaより)

 子供たちの中ではマルコムが最も肌の色が薄く、髪は赤みがかった茶色だった(後のハスラー時代にあだ名が「デトロイト・レッド」となった理由)。当時の習慣として親は子供を罰する際に鞭打ったが、マルコムは他の兄弟と違い、父に手を挙げられることはほとんどなかった。マルコムはその理由を、父はアンチ白人主義者でありながらも無意識に肌の色の薄い自分を特別視したのではないかと推測している。

 他方、白人のように肌の色が明るい母親からは、よく「外に出て日焼けしなさい」と言われている。成長した後のマルコム自身は、自分の色の薄さは白人から黒人へのレイプの証であると自覚していた。黒人にとって肌の色の濃淡がいかに繊細かつ重要な問題であるかを物語るエピソードだ。

 父アールは一家がミシガン州ランシングに移った後、マルコムが6歳の時に路面電車に頭部を轢かれて亡くなった。証拠こそなかったものの、ルイーズを含め、ランシングのアフリカン・アメリカンたちは白人至上主義者による殺害だと信じて疑わなかった。

 MLKは6歳で白人の友だちを失い、マルコムは同じ6歳で父親を白人に殺されたのである。

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