【シリーズ黒人史8】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~キング牧師・マルコムX

文=堂本かおる
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「黒人は弁護士になれない」

 父アールの死により一家は経済的に困窮し、福祉局の職員による家庭訪問が始まった。母ルイーズは福祉を受けることでプライドをへし折られ、同時に子供たちを里子に出されて一家離散させられることを恐れた。まだ幼いマルコムは母と白人のソーシャルワーカーたちのやり取りから、自分たちがモノとして扱われていると感じていた。

 さまざまなプレッシャーを背負ったルイーズは徐々に精神を病み、アールの死から8年後の1939年、精神科病院への入院を命じられた。ルイーズには恋人との間に生まれたばかりの乳児を含めて8人の子供がいた。すでに10代後半となっていた年長の2人は実家に留まれたものの、マルコムを含む6人は里子として異なる家庭に預けられた。

 マルコムは白人ばかりの中学に入学させられたが、誰からも好かれ、成績は最優秀だった。白人男性の英語教師は聡明なマルコムを気に入っており、ある日、進路について考えたことがあるかと尋ねた。マルコムもこの教師を慕っており、「弁護士になりたいです」と答えたところ、教師はこう諭した。

「君は自分が(Nワード)であることについて現実的にならなければ。弁護士は(Nワード)にとって現実的ではないよ」

 次いでマルコムは木工が得意だからという理由で「大工になれば?」と薦めた。この一件はマルコムの内面を破壊し、同時に白人への信頼を跡形もなく打ち壊してしまったのだった。

刑務所でイスラム教徒に

 マルコムは中学を終えるとすぐにミシガン州を出てボストンに移った。父アールと先妻との娘で、すでに成人していた姉エラはマルコムの母親代わりとも言える存在で、マルコムを自宅に住まわせた。後年、エラは公民権活動家として知られる存在となる。

 ミシガン州ランシングに比べるとはるかに都会であるボストンの空気が気に入ったマルコムはいくつもの仕事を試し、やがてボストン/ニューヨーク間を往復するニューヘイヴン鉄道でサンドイッチなどを車内販売する職に就いた。理由は大都会ニューヨークへの憧れだった。まだ16歳だったが、長身で年長に見えたため21歳と称した。

 以後、20歳となる1945年までの4年間、マルコムはニューヨーク、ボストン、ランシングを行き来する。ジャズの全盛時であり、ニューヨークでは黒人地区ハーレムの華やかなジャズバーでバーテンとなり、ビリー・ホリデイ、デューク・エリントンなど人気アーティストとも交流。やがて麻薬売買やナンバー賭博に手を染め、ボストンでは白人の恋人ソフィーと共に強盗を働く。

 強盗罪で起訴されたマルコムは、翌1946年に懲役10年の量刑を受ける。強盗罪への一般的な量刑に比べるとはるかに厳しく、マルコムはこれを「黒人が白人女性に手を出したことへの厳罰」と捉えていた。

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マルコムX マグショット 1944(wikipediaより)

 当時、マルコムの弟はすでにネイション・オブ・イスラム(NOI、アフリカ系アメリカ人に特化したイスラム組織)に改宗しており、マルコムもその影響で収監中に改宗。以後、所内で熱心にイスラム教と一般教養を学ぶ。

 6年半を刑務所で過ごした後、1952年の夏に27歳で出所。間も無くネイション・オブ・イスラムの指導者イライジャ・ムハンマドに見初められ、以後、急速に教団の”顔”となってゆく。

同じゴール、異なる視点

 同じ時代に生まれたキング牧師とマルコムXは、これほどまでに異なる生い立ちを持っていた。黒人であることの意味、黒人の地位向上の方法についての考えも水と油の違いだった。

 しかし、どちらもカリスマ性に満ち、飛び抜けて聡明な人物だった。どちらの演説も多くの人々の魂をつかんだ。

  黒人運動のスタート地点に着いた時、キング牧師は25歳、マルコムXは27歳だった。以後、それぞれ39歳で凶弾に倒れるまでの短い期間を、文字通り生命をかけて疾走したのだった。(次回に続く)
(堂本かおる)

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