
写真:つのだよしお/アフロ
連載「議会は踊る」
尾身茂新型コロナウイルス感染症対策分科会会長が、東京オリンピック・パラリンピック開催を「普通はない」と評したことが話題になっている。
普通はない、ということは、開催するのには特段の理由が必要であるということだ。確かに、他のあらゆる娯楽が制限される中、五輪だけを開く必要があるとすればそれは、何らの「特別な理由」が必要だろう。
つまり政府は、一体五輪はなんであり、日本に何をもたらすのか、どのような意義があるのかを考え、説明する必要がある。
五輪とはなんであるか。標榜されていたものは、日本政府の中においてもどんどんと変わっていった。最初は復興五輪と言われた。やがて、人類がコロナに打ち勝った証としての五輪になった。今は一体何なのだろう?
今我々は問い直すべきだろう。東京オリンピック・パラリンピックとはなんであるか。
そもそも考え直さなければいけないのは、この五輪がなんのために招致されたのか、ほとんどの都民は理解していないということだ。
2012年5月に公表されたIOCの世論調査では、東京でのオリンピック開催に対して賛成が47%・反対が23%・どちらでもないが30%と、過半数の賛成を得られていなかった。
もともと、五輪は諸手を挙げて賛成されているイベントというわけではなかったのだ。それも無理はない。過剰になった開催設備は、各国でオリンピック後の廃墟ができるほどだった。経済効果は怪しく、ただでさえ過密状態の東京は、五輪開催中は更に過密になることが予想された。
そして、東京都が「温暖でアスリートには最適」と主張した東京の8月は、外を歩くだけで絶望的に人の体力を奪うことを都民は知っていた。
最終的に、過半数の賛成を得られなかった五輪は「復興五輪」というリボンを付けられ、パッケージにされ、それがテレビ・新聞の大喝采により増幅されることで、一つの祝祭としての地位を得た。
しかし、忘れてはならないのは、誘致した当初ほとんどの人間はこれが一体何であるか、なんのために行われるのかということを理解していなかったということだ。参考までに言えば、最大のライバルとみなされたマドリードの支持率は78%であった。
五輪に意味を付けたのはメディアである。テレビ局は世紀のコンテンツを見逃さなかった。感動のストーリー、アスリートの物語を語り、拡散した。一度開催が決まってしまえば、そこに批判が入り込む余地はなかった。
実際は、問題は山積していた。新国立競技場建設途中の作業員の死。五輪のために優遇された建設資材。竹田恆和JOC会長のフランス当局による贈収賄疑惑とロビイング活動にまつわる疑惑。
これらの問題は、十分にメディアで報道されてきたとは言い難い。メディアは結局「なぜ五輪を開催するのか」という根本的問題をなおざりにして、コンテンツとしての五輪、視聴率を稼げる番組としての五輪の保護に走っていたのではないだろうか。
いよいよ「普通はない」五輪を開催するとなれば、政府もメディアも「五輪とはなんであるのか、なんのためにやるのか」という根本的な疑問に答えざるを得なくなる。
ようやく、朝日新聞が社説で五輪への反対を表明するなど、遅まきながら一部メディアは責務を果たそうとしている。
私は、五輪に関わるすべての人間が「なぜ五輪をやる必要があるのか」「五輪とは何なのか」という質問に答えるべきであると思う。
結局のところ、この質問に答えられる人間は誰もいないのではないか。
「復興五輪」「コロナに打ち勝った証」というリボンを解いてみれば、そこにはなにもないのではないか。。オリンピックとは虚構だったのだ。五輪を推進しようとしている人々はまだ、2020年を待っている。コロナもない、マスクもいらない、誰もが自由に国を行き来できる、あの2020年を。
しかし、残念ながら、我々が待っている「2020年」は、今の日本のどこにも存在しないのである。