ホン・サンス監督『逃げた女』 “何も起こらない”からこそ追及したくなる主人公の腹の底

文=新田理恵
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 映画『パラサイト 半地下の家族』が日本でも大ヒットし、今年はユン・ヨジョンが米アカデミー賞助演女優賞を授賞するなど、世界的に注目を集めている韓国映画。海外ではポン・ジュノらと並び国際映画祭の常連として知られるのがホン・サンス監督だ。

 同監督の『逃げた女』(6月11日公開)は、女性たちのたわいない会話劇。そこから透けて見える彼女たちの関係性を、無限に想像する豊かさがある。

夫から離れ、主人公が見つけたものは……

 主人公のガミ(キム・ミニ)は、夫の出張中に3人の女友だちを訪ねる。どうやら3人に会うのは久しぶりらしい。

 最初に訪れるのは、ガミが「先輩」と呼ぶ中年女性ヨンスン。夫と泥沼離婚して間もなく、ローンで購入したマンションにルームメイトのヨンジと暮らしている。ヨンジは、ガミがお土産に持ってきた肉を黙々と焼き、かいがいしく世話をしてくれる気持ちの良い女性だ。長く会わなかった間に結婚したことを告げるガミ。「結婚して5年、夫とは1日も離れたことがない。離れるのは今回が初めて」と夫との関係を話してヨンスンを驚かせる。

 次に訪れるのは、やはりガミが「先輩」と呼ぶスヨン。ヨンスンよりちょっと若い、40歳前後だろうか。ピラティスインストラクターの仕事で「10億ウォン以上(約1億円)貯金した」とかで、最近オシャレなマンションに引っ越した。独身。

 3人目に訪ねるのは、カルチャーセンターに勤務している年の近いウジン。夫のチョンは人気作家で、このセンターの地下で行われるファンの集いはその日も満席だ。ウジンは、そんな夫が最近やたらメディアなどに出てしゃべり過ぎることが気に入らない。かつてガミからチョンを奪った過去があるようで、気まずい関係のガミは偶然を装ってウジンに会いに行く。

 いつも聞き手に回るガミが、唯一、自分から語るのは「夫とは1日も離れたことがない」という話だけだ。一様に「男はこりごり」と言いたげな女友だち3人は、そんなガミの話にそれぞれ複雑な表情をうかべる。

 ガミは何をしたいのか? その答えが欲しくて、私たちはこの映画を見進めることになる。

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 泥沼離婚を経験したヨンスンは、ヨンジと穏やかな時間を過ごしながら、荒れた父親と2人暮らしだという隣家の若い女性の相談相手になっている。ふとしたエピソードから、ヨンジもまた自分の力を誇示する男性への不快感を持っていることが見て取れる。ヨンスンの家はなんだか、傷ついた者のシェルターのようだ。そういえば、ヨンスンの離婚はなぜ「泥沼」だったのか。そのあたりは語られないので、勝手に想像することにする。

 2人目のスヨンは経済的にも余裕があり、「生活を楽しんでいる芸術関係者が多く集まる」という飲み屋に通い始めたと語る。上の階に住む建築家の男性が気になるのに、飲み屋で出会って一夜を共にしてしまった若い詩人に家まで押し掛けられて困っている。男関係に頭を悩ませる姿も、ガミにとっては人生を楽しんでいるように見えて魅力的らしい。

 そんなスヨンにまた「夫と一度も離れたことがない」という話を始めるガミ。自分は「運がいい」と言いながらも、やりたいことが見つからず、今営んでいる花屋の仕事も張り合いがないと不満を吐露する。

 特に何も起こらないこの映画の中で、最大のミステリーはガミがウジンに会いに行った目的かもしれない。

 ウジンは、夫のメディア露出が増え、人気者になったことを快く思っていない。この夫婦関係もそれ以上は語られないが、「私に劣等感があるのかも」と自己分析するウジンの言葉から、かつて思い描いた場所に立てていない彼女の焦燥感がそれとなく伝わる。そんなウジンに、翻訳家である夫の仕事や夫婦の暮らしぶりを話して聞かせるガミ。ウジンは「私の夫とは正反対だ」と羨望の眼差しを向けるが、繰り返されるガミの言葉は、果たして本心なのだろうか?

 最終的に、また「ガミは何をしに来たのか?」という最初の疑問に立ち戻る。

 3人のもとを訪ねてガミは何を感じ、何を考えたのか。進む道が分かれ、暮らしの違いが大きくなれば、人はつい他者と自分を比較してしまいがちだが、自分で自分を満たすことでしか解決しない問題をガミは抱えていそうだ。もしかしたら彼女も夫から逃げたいのかもしれない。逃げようとしているのかもしれない。すでに逃げたのかもしれない。虚無感にも希望にもとれるラストシーンがやけに意味深だ。

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 この映画を撮ったホン・サンス監督の過去の作品は、映画監督や批評家など、ある程度社会的な地位のある中年男性が若い女性と不倫の恋をするという展開が多く、ちょっとだらしない男に女が振り回される様子を愛すべきものとして描いているところに、自分はイライラさせられた。

 しかし、近年は女性を主人公にした作品に傾向を変え、本作に至っては、登場する男たちは皆、女たちを不快にさせる存在としてのみ登場する。今の韓国では、昔の作風だと受け入れられないのかもしれないし、2017年に不倫関係を公表して話題になった本作の主演女優キム・ミニの存在が謎めく女性心理を追うという作業に執心させているのかもしれない。

 特に何も起きないこの映画を退屈だと思う人もいるとは思う。だけど理屈では説明しにくい女同士の微妙な関係をミニマムに表現した映画になっていて、少なくとも自分は片時も目が離せなかった。

『逃げた女』
6月11日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
監督・脚本・編集・音楽:ホン・サンス
出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク
配給:ミモザフィルムズ
原題:도망친 여자 英題:THE WOMAN WHO RAN
韓国映画/2020年/77分
公式サイト https://nigetaonna-movie.com/
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