
Getty Imagesより
●「セカイ」を『資本論』から読み解く(第3回)
新型コロナ禍は収まらず、そんな状況下でオリンピック開催は、国民の反対の声と世界中から上がる危惧の声を無視して強行、政治腐敗はとどまるところを知らず、ということでまったく明るい話題のない日本で、唯一の嬉しい話は大谷翔平選手の大活躍です。
大谷はすごい。桁違いにすごい。そのことは大して野球に詳しくない人でもわかりますね。
野球の経験者は、もっとよくわかるでしょう。だいたいプロの選手になるような人たちは皆、子供時代からズバ抜けており、少年野球では「エースで四番」です。プロ野球の世界は、「エースで四番」だった人たちだけを集めてさらにふるいに掛けてできているわけで、そのふるいに掛けられる過程で自分の得意なポジションを選ぶことになります。
そして皆、「エースで四番」だったのですから、投手としてプロ選手になる人以外は、どこかのタイミングでピッチャーの道を諦めているわけです。ピッチャーを諦めるというのは、なかなか辛いことであるらしく、あの王貞治でさえ、プロ入りした後に投手から野手に転向したときの心境を振り返って、「野球は何といっても投手だ。一度でも経験した者は『生涯投手』と思うもので未練はあった」と述べています。
ともあれ、プロの道は厳しいものだから、投手になるなら投手の道を、野手になるなら野手の道を究めなければならず、どちらかは諦めなければならないということは、あまりに自明なことでした。
ところが、です。21世紀に入ってもう久しいというのに、諦めなかった男がいた。このことが日本だけでなく、全米の人々に途轍もない衝撃を与え、熱狂を巻き起こしているわけです。
さて、大谷翔平の凄さが、マルクスの『資本論』と何の関係があるのでしょう? 大谷の凄さは誰にでもわかりますが、『資本論』を理解すると、その凄さをもっとよく理解できるのです。
現代野球の歴史は分業の細分化の歴史であると言えます。投手リレー、すなわち継投という戦略は、今日では自明のものですが、昭和の時代は先発投手が完投するのは当たり前のことでした。
そこに9回を専門的に担当する「クローザー」が現れ、やがて8回だけを担当して9回につなぐ「セットアッパー」なるものが登場しました。いまでは、セットアッパーは複数化して、先発は6回くらいまで投げれば上出来だという話になっています。
このように現代野球では分業が細分化する傾向が強力に働いてきました。そこに何と、一番初めの分業、すなわち投手と野手の分業という最も根本的な分業を元に戻すという、あり得ない行為をしたのが大谷です。これは、歴史に対する反逆だと言っても過言ではないでしょう。
そして、分業が細かくなり続けてきたのは、野球だけではありません。近代資本主義には、分業が細かくなってゆくメカニズムが組み込まれています。
「経済学の父」と称されるアダム・スミスが、「ピンの生産」を題材として分業の導入による生産力の飛躍的増大を分析したのは有名です。スミスら古典派経済学を批判的に継承したマルクスは、分業による成果の分析に飽き足らず、その負の側面を強調しました。
1 2