聴力を突然失ったドラマーが気づいた「音」の世界 「聞こえる」ことの意味

文=近藤真弥
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喪失と発見の繰り返し

 こうした姿を見て、本作の魅力は喪失と発見の物語を丁寧に描いたところにあると確信した。

 ルーベンの物語は、聴覚の急激な衰えという音の喪失から始まる。その後ろう者の支援グループに身を寄せると、手話を習得したこともあり、音がない世界との付きあい方を見つける。しかし音楽への執着を捨てられないため、人工内耳によってその執着心を満たそうとする。ところが人工内耳を取りつけても、理想とは違う聞こえ方だった。この失望によって、ルーベンは静寂というあたりまえになりかけていた音をまた失ってしまった。それに気づいたルーベンは、最終的に人工内耳を外し、静寂のなかで輝く一筋の光を再び見つける。

 ルーベンは喪失と発見をそれぞれ2回ずつ経験する。お世辞にもスムーズとは言えないこの紆余曲折を、アーメッドは圧巻の演技で表現している。そこには、一度希望を見つけたら突きすすみ、万事上手くいくという出来過ぎたドラマみたいな姿はない。そのような表現を可能にしたアーメッドの優れた演技力と豊富な情感の引きだしは素晴らしいの一言だ。

 アーメッドが演じる七転八倒なルーベンを見て、人という生き物は非常に複雑で、多くの強さと弱さを抱えているのだとあらためて思い知らされた。

 いくつもの壁にぶつかりながら、ルーベンが一筋の光を泥臭く掴めたのは、支援グループでの経験があったからだろう。たとえば、ろう者の子どもと公園のすべり台で遊んでいるとき、ルーベンは従来とは違う形で音楽を感じるシーンがある。子どもと一緒にすべり台を叩くと、振動が体に伝わり、ルーベンは何かを発見したかのような表情を浮かべる。それをきっかけに、かつてドラムで刻んでいたリズム・パターンを叩きはじめる。

 すべり台のシーンを含め、本作はラストでルーベンが選択する道と、その道を選ぶ必然性を強める伏線が随所で飛びだす。伏線となる場面を観たときはひとつのシーンとして受けとめるだけかもしれないが、エンドロールが流れてからそのシーンの数々を振りかえってみると、ルーベンの歩みにおいて大切な言葉や経験だったのだなとわかるはずだ。

 ろう者になってから得たものは、確実にルーベンの価値観や視点を広げていた。こういった気づきが降ってきたからこそ、最終的には人工内耳を外し、音楽も含めた多くの物に対する執着から解放されるという脚本の構成は巧みだ。

音が聞こえなくても「聞こえる」

 ルーベンの喪失と発見を描くうえで、音楽が果たしている役割も重要である。本作において音楽は、物語を彩る装飾や黒子的役割に収まるものではない。音が聞こえないルーベンの状態を表すときは、ほぼ全ての音域をカットし、耳に蓋がされたような音の鳴りを再現するなど、他の映画と比べても飛びぬけて登場人物の心情や状況を代弁した音の使い方が目立つ。

 この手法自体は、過去の映像作品になかった斬新なものというわけではない。ドラマ『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2(2017)の第6話「ニューヨーク、アイラブユー」でも、ろう者の女性がメインのくだりでは9分ほど無音になるなど、音を活かした演出が光る作品を挙げていけば多くの名前が出てくるはずだ。

 そのうえで、本作が他の作品群よりも音の活かし方が特段に上手いと言えるのは、それが物語の始まりから終わりまで軸になっているからだ。作品全体の流れを保つため、一部のくだりだけで無音にするといったワンポイント的なやり方ではないのだ。

 多くの観客にとって、本作を初めて観るときは驚きの連続だろう。突如音が小さくなったり、聞こえなくなったりするのだから。

 本作の音楽は、シーンの雰囲気を盛りあげる、あるいは物語のクライマックスを彩るといったことはしない。むしろ、盛りあげどころで音を断つこともいとわず、時には物語の流れや観客のテンションに水を差す。

 そうした音楽の使い方は、聴力を失ったルーベンのぎこちなさや、人工内耳を付けた後の違和感と共振している。音質だけを評価するなら、本作の音楽は質が悪いと言えるだろう。人工内耳の金属的な聞こえ方も、シーンによっては高域が極端に歪んでいるなど、耳障りに感じる瞬間も少なくない。しかし、この質の悪さがあるからこそ、観客はルーベンの物語をとても深いレヴェルで追体験できる。質が良い音ではないかもしれないが、それこそ作品に必要な音だったのだ。

 そんな音選びの妙を骨の髄まで味わうためにも、本作はヘッドフォンかイヤホンをしながら、ひとりで鑑賞することをおすすめしたい。音の聞こえにくさと言っても、聞こえにくさを表現する際の音のヴォリュームがシーンごとで微妙に違うなど、細かいところにまで手が行きとどいているからだ。こういった高度な芸当に、第93回アカデミー賞の音響賞が贈られたのは当然と言える。

 本作は音を通じて、世界に生きる人々のさまざまな視点を描く傑出した映画だ。耳が聞こえなくなったルーベンを見て、他の人よりも不便が多く、かわいそうと思う者もいるかもしれない。しかし、そうした視座に本作は立っていない。ろう者の子どもとすべり台で遊んだ時にルーベンも気づいたように、耳以外の回路を通じても、音とグルーヴは感じられる。静寂の世界であっても手話によって他者と繋がり、笑いあうことだってできる。これらの光景のなかで活きいきとしているろう者のルーベンは、音は聞こえなかったとしても相手の心の声は聞こえていただろう。

 音が耳に入らずとも、相手の心を感じるのであれば、それも聞こえるということなのではないか? このような問いが込められた『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』は、筆者も含めた多くの観客が無意識に抱えているであろう凝り固まった価値観や偏見を丁寧に解きほぐす。

参考文献

イギル・ボラ 矢澤 浩子『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』2020 リトル・モア
キャロル・パッデン トム・ハンフリーズ 森 壮也 森 亜美『新版「ろう文化」案内』2016 明石書店
小林 洋子『ろう女性学入門――誰一人取り残さないジェンダーインクルーシブな社会を目指して』2021 生活書院
佐々木倫子『ろう者から見た「多文化共生」: もうひとつの言語的マイノリティ』2012 ココ出版
長嶋 愛『手話の学校と難聴のディレクター ――ETV特集「静かで、にぎやかな世界」制作日誌』2021 筑摩書房
ハーラン・レイン 長瀬 修『善意の仮面―聴能主義とろう文化の闘い』2007 現代書館
マーク・マーシャーク パトリシア・エリザベス・スペンサー 四日市 章 鄭 仁豪 澤 隆史『オックスフォード・ハンドブック デフ・スタディーズ ろう者の研究・言語・教育』2015 明石書店

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