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列車の窓ガラスに映る自分と、不意に目が合う。冴えない人間が映っている。痩せているとは言えないずんぐりした体型、低身長なのに小さくない顔、ほとんど一重に見える奥二重、丸い鼻、濃い体毛、そういうものを備えた、「女」に見える人間である。
この状況が苦しくなかったことはない。私は「断ち切った」人間ではない。まだ苦しみの渦中にいて、自分の容姿に対する憎悪を、凡庸に培養し続けている。こんなはずじゃない、もっとましな見た目だったら別の道があったんじゃないか、といつだって思う。各駅停車しか止まらない駅で急行を見送るように、私は光り輝く人たちのことを暗がりから見つめている。あの電車には、私は乗れない。乗る資格がない。私の前では、あのドアは開かない。
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この苦しみは、私だけが抱いているものではないはずだ。あらゆる場所に〈美しい〉人間の表象をあしらったメディアが溢れ、人々はそれらに絶えず追い立てられている。この出口のない地獄のような状況下で「コンプレックスこそ美しい」という言説が出てくるのは、まあ、おぞましいことだが、当然の帰結なんだろう。
具体例としてCHAIというバンドを挙げてみよう。CHAIは「ニュー・エキサイト・オンナバンド」略して「NEO」なる看板を掲げた四人組だ。コンセプトは「NEOかわいい」及び「コンプレックスはアートなり」である。
「NEOかわいい」とは世間的な「かわいい」の意味を塗り替え、コンプレックスを「かわいい」ものとして語り直す試みだ。CHAIは同名の楽曲「N.E.O.」を発表しており、同曲のミュージックビデオは、さまざまな「コンプレックス」の名称変更と意味の塗り替えを提案している。例えば一重まぶたは「クールアイ」(説明:「眉毛の下の、クールジャパン」)、貧乳は「フラットガール」(説明:「誰にも媚びない、公平さと平静さ」)、というように。
これは一見明るい……そしてフェミニズム的であり、フェミニズムではないとは言わない。しかし、この「コンプレックス」の肯定ムーブは、やはり批判せねばならない。
先に触れた通り、「コンプレックス」を「コンプレックス」足らしめているのは社会状況であり、特定の誰かでもなければ、生まれ持った性質でもない、いわば言説が作り出した幻想である。しかし「コンプレックス」に対して「あなたはありのままでかわいい」と言うとき、「コンプレックス」は「ありのままのあなた」とイコールで結ばれる。さらにそれを「かわいい」と肯定することで、「コンプレックス」と呼ばれた性質は、本人が生まれ持った動かせない要素として本質化されてしまうのだ。
そして新たに付された説明が、身体的特徴に身体的特徴以上の意味付けを行なっているという点で、「N.E.O.」は二重に危うい。一重まぶたを「クールジャパン」と呼ぶことでナショナリズムとルックスが接合すれば、ゾッとするような排除がそこに生じるし、「貧乳」であることを「媚びない」と言い表すことで出現するのは「巨乳=媚び」言説である。CHAIに「そういうつもり」がないことはわかっている。しかしそのように受け取れる余地があるということは、すでにヤバい方向に転用される可能性を大いに擁しているということなのだ。
さらに「あなたはありのままでかわいい」という言葉は、「コンプレックス」を現実として受け止めている主体に対する呼びかけであり、相手の身体的特徴をコンプレックスたらしめた社会に対する呼びかけではない。苦しんでいる主体に対してさらに自己変革を求め、「コンプレックス」を克服せよと迫るのは筋違いだ。
社会問題であるはずのルッキズムは、「コンプレックス」という個人の内面を反映した言葉によって個人の問題にすり替えられ、さらに自助努力によって克服すべきパーソナルな課題へと矮小化されていく。このふるまいはルッキズムに関する議論の核心を迂回する態度を生み出し、その態度に対する批判すら「これは個人的なものだから」という言い訳で逃げ切ることを許してしまう。
実際、CHAIのミュージックビデオが示す「コンプレックス」表象は、妙に大人しい。「足太い」と言って映される足はそこまで太くないし、毛はつるつるに剃られているのだ。
本来すでに構築された「コンプレックス」を克服するには、「コンプレックス」を社会構築した言説を突き止めて脱構築し、その現実が本質的なものではありえないことを社会に「理解(わか)らせる」ことで達成されるべきではないか。「コンプレックス」に苦しむ人が変わる必要はない。
見た目に対する評価は必ず社会関係の中で生じていて、本質的な「美醜」というものは決して存在しない。自認であろうと他認であろうと、「美醜」は構築されたルールに沿って作り出されたゲームであって、ゲームであるならばゲーム盤を破壊する余地がある。ならば指すべきは勝ち筋のレクチャーやルールの改変や、ましてやプレイヤー(にされてしまった人たち)の意識改革ではなく、あくまでもゲームそのものの破壊なのだ。少なくとも私は、巻き込まれた者たちの内省・自己変革がルッキズムへの特効薬になるとは全く思っていない。もし私が「美しく」変わる、あるいは今の己を「美しい」と認識し直すことができたなら、私は救われるのかもしれないが、それは私が望む革命ではない。変わらなきゃいけないのは社会。もう一回書いとこう。変わらなきゃいけないのは社会。
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あるいはもう一例考えてみる。「女性が感じるコンプレックスをアドバンテージに」というキャッチフレーズを伴った朝日新聞運営のWebメディア、「かがみよかがみ」だ。このサイトを開くと、トップには一般公募で集められた「コンプレックス」に関するエッセイが大量に並んでいる。
正直に申し上げて私は「かがみよかがみ」がめちゃくちゃ嫌いだ。言いたいことは山ほどあるのだけれど、こちらもCHAIと同根の「社会問題の個人化」が基盤となっているように見える。
同サイトが公開された際の趣旨文の一部を参照してみよう。
自分の気持ちを表現できるようになって、自分のことを好きになろう。
あなたの言葉が、あなたの心へ、同じ悩みをもつあの子へ、届きますように。
あなただけのおまじないを見つけられる場所になりますように。
https://mirror.asahi.com/article/12627912
「かがみよかがみ」は自らの「コンプレックス」を語り直すエッセイを無報酬で集め(こんなに安い報酬で自分自身を曝け出すような文章を書かせる無防備な体制も大問題であると思う)、その語り直しによって「自分を好きになる」こと、そして「同じ悩みを持つあの子」と悩みを共有することを主な目的としているようである(*1)。すなわち「共感」を作動させながら自己肯定感を得ることで、「コンプレックス」に対する自己意識を変革しよう、という方向性なのだろう。「かがみよかがみ」において「コンプレックス」を「コンプレックス」足らしめるものとして想定されているのは他人の評価であり、それを捨てて自己評価を基準とすることで、問題は解決されると考えているように読み取れる。
*1 6/26追記:文章に誤りがありましたので、以下のように修正いたしました。修正前:一本一〇〇〇円の報酬で集め 修正後:無報酬で集め
……これもやっぱり、ものすごく閉鎖的だ。繰り返し主張しているように、「コンプレックス」を「コンプレックス」足らしめているのは、「他人」の目ではなく、われらがみな巻き込まれている社会そのものの状況であるはずだ。「自分を好きになる」ことや「あの子」との共感が自分の「コンプレックス」を救ったとしても、問題を他者へ開いていくことには繋がらず、閉じた輪の中で完結してしまうだろう。
というか、「共感」! これは自論だが、「共感」で繋がろうとする輪ほど警戒すべきものはない。本当にあなたが抱いている苦しみは、「あの子」と「同じ悩み」だろうか? 本来全く異なるはずの他者と同期し合うことで、果たして本当に問題の根本は解決されるだろうか? その輪は結局、自分の意識を変えることができずにいる誰かを阻害する、無批判な自己啓発サークルになってはいないか? カスの権力が生み出したカスのルールが幅を利かせている状況に対して情動で連結した内輪の力で対抗しようとするやり方は、少なくとも私の目には、別の権力の生産にしか映らない。自己ひとりを、あるいは共感で繋がった幾人かの「あの子」たちを肯定して、そこに先はあるのか?
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「自己肯定感」全てがいらないとは言わない。永遠に続く自己否定の中にいると本当に死んでしまうから、そこから抜け出す程度には自分を許した方がいい。ただ、ひとまず生きる方向へ舵を切ってなお「自己肯定感」を追求し続けるなら、それはついていけない人を笑顔で振り落とす能力主義へ繋がっていくだろう。明るくて優しくてやわらかくて、見ているとなんだか「自分も変わろう」と思えてくる、そういうムードの「フェミニズムっぽい自己啓発」に、私は賛同しない。何度でも書くが、変わるべきは社会の方である。己を否定された怒り、苦痛、悔しさを、さらに己の労力を割いてわざわざ明るいものにすり替えたり、やわらかいもので覆い隠したりする必要はない。
詰まるところ私が想像しているのは、己の容姿が嫌いなままでも余裕で生きていける社会である。この世は容姿というものに意味を見出しすぎているし、容姿が人間の生存に食い込みすぎている。解体すべきはそこなのだ。トマトが嫌いなせいで死ぬほど苦しむ人はほとんどいないのに、自分の容姿が嫌いなせいで死ぬほど苦しむ人は大勢いるというのは、絶対におかしいと思わないか? 容姿の社会的意義が限りなく軽くなったときにこそ、われら(あえてわれらと言おう)の呼吸はようやく楽になるはずではないか!
どうでもいいじゃん、と言ってみる。いや、正直全然どうでもよくないよ。冒頭にも書いた通り、私もまだ苦痛の渦中にいて、恨みがましい目つきをやめられずにいるただの弱い人間である。しかしそれでも、あたかも見た目なんぞどうでもいいだろと言わんばかりの振る舞いを試す。己が否定している己を、社会に否定される己を、そのまま放置する。己の醜さをトマトの不味さと同じ距離感で恨む。ぎりぎりのところで揺れながら、自分の言葉が何かをずらす可能性に、じっと目を凝らしている。
また列車が来る。乗る必要は、最初からない。
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