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あるいはもう一例考えてみる。「女性が感じるコンプレックスをアドバンテージに」というキャッチフレーズを伴った朝日新聞運営のWebメディア、「かがみよかがみ」だ。このサイトを開くと、トップには一般公募で集められた「コンプレックス」に関するエッセイが大量に並んでいる。
正直に申し上げて私は「かがみよかがみ」がめちゃくちゃ嫌いだ。言いたいことは山ほどあるのだけれど、こちらもCHAIと同根の「社会問題の個人化」が基盤となっているように見える。
同サイトが公開された際の趣旨文の一部を参照してみよう。
自分の気持ちを表現できるようになって、自分のことを好きになろう。
あなたの言葉が、あなたの心へ、同じ悩みをもつあの子へ、届きますように。
あなただけのおまじないを見つけられる場所になりますように。
https://mirror.asahi.com/article/12627912
「かがみよかがみ」は自らの「コンプレックス」を語り直すエッセイを無報酬で集め(こんなに安い報酬で自分自身を曝け出すような文章を書かせる無防備な体制も大問題であると思う)、その語り直しによって「自分を好きになる」こと、そして「同じ悩みを持つあの子」と悩みを共有することを主な目的としているようである(*1)。すなわち「共感」を作動させながら自己肯定感を得ることで、「コンプレックス」に対する自己意識を変革しよう、という方向性なのだろう。「かがみよかがみ」において「コンプレックス」を「コンプレックス」足らしめるものとして想定されているのは他人の評価であり、それを捨てて自己評価を基準とすることで、問題は解決されると考えているように読み取れる。
*1 6/26追記:文章に誤りがありましたので、以下のように修正いたしました。修正前:一本一〇〇〇円の報酬で集め 修正後:無報酬で集め
……これもやっぱり、ものすごく閉鎖的だ。繰り返し主張しているように、「コンプレックス」を「コンプレックス」足らしめているのは、「他人」の目ではなく、われらがみな巻き込まれている社会そのものの状況であるはずだ。「自分を好きになる」ことや「あの子」との共感が自分の「コンプレックス」を救ったとしても、問題を他者へ開いていくことには繋がらず、閉じた輪の中で完結してしまうだろう。
というか、「共感」! これは自論だが、「共感」で繋がろうとする輪ほど警戒すべきものはない。本当にあなたが抱いている苦しみは、「あの子」と「同じ悩み」だろうか? 本来全く異なるはずの他者と同期し合うことで、果たして本当に問題の根本は解決されるだろうか? その輪は結局、自分の意識を変えることができずにいる誰かを阻害する、無批判な自己啓発サークルになってはいないか? カスの権力が生み出したカスのルールが幅を利かせている状況に対して情動で連結した内輪の力で対抗しようとするやり方は、少なくとも私の目には、別の権力の生産にしか映らない。自己ひとりを、あるいは共感で繋がった幾人かの「あの子」たちを肯定して、そこに先はあるのか?
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「自己肯定感」全てがいらないとは言わない。永遠に続く自己否定の中にいると本当に死んでしまうから、そこから抜け出す程度には自分を許した方がいい。ただ、ひとまず生きる方向へ舵を切ってなお「自己肯定感」を追求し続けるなら、それはついていけない人を笑顔で振り落とす能力主義へ繋がっていくだろう。明るくて優しくてやわらかくて、見ているとなんだか「自分も変わろう」と思えてくる、そういうムードの「フェミニズムっぽい自己啓発」に、私は賛同しない。何度でも書くが、変わるべきは社会の方である。己を否定された怒り、苦痛、悔しさを、さらに己の労力を割いてわざわざ明るいものにすり替えたり、やわらかいもので覆い隠したりする必要はない。
詰まるところ私が想像しているのは、己の容姿が嫌いなままでも余裕で生きていける社会である。この世は容姿というものに意味を見出しすぎているし、容姿が人間の生存に食い込みすぎている。解体すべきはそこなのだ。トマトが嫌いなせいで死ぬほど苦しむ人はほとんどいないのに、自分の容姿が嫌いなせいで死ぬほど苦しむ人は大勢いるというのは、絶対におかしいと思わないか? 容姿の社会的意義が限りなく軽くなったときにこそ、われら(あえてわれらと言おう)の呼吸はようやく楽になるはずではないか!
どうでもいいじゃん、と言ってみる。いや、正直全然どうでもよくないよ。冒頭にも書いた通り、私もまだ苦痛の渦中にいて、恨みがましい目つきをやめられずにいるただの弱い人間である。しかしそれでも、あたかも見た目なんぞどうでもいいだろと言わんばかりの振る舞いを試す。己が否定している己を、社会に否定される己を、そのまま放置する。己の醜さをトマトの不味さと同じ距離感で恨む。ぎりぎりのところで揺れながら、自分の言葉が何かをずらす可能性に、じっと目を凝らしている。
また列車が来る。乗る必要は、最初からない。
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『現代思想 2021年11月号 特集=ルッキズムを考える』(青土社)
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