
『大豆田とわ子と三人の元夫』Instagramより
柔軟性のある役者の演技、滑らかな話し言葉、それに連なる軽快な会話の応酬。示唆に富んだダイアローグのなかに、どうしようもなく胸を突く言葉がときおり発せられる。劇中音楽からファッション、インテリア、そして主題歌に至るまで、すべてにおいて高水準のドラマだった『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系/以下、『大豆田とわ子』)が、全10話を事も無げに走り抜けてしまった。
あと10話ほど放送してくれないか、と思いながらも、この全10話を10回見返して咀嚼し続ける楽しみもあるのではないかと、そんなことを考えさせられるドラマはとても珍しい。それほどに、計算された軽さと掘りがいのある深さを持ち合わせた作品だった。その軽くて深い物語が何を描いたのか、考えてみたい。
「自分は自分らしくあるか?」と問い続けるドラマ
私たちは、子どもの頃に思い浮かべていたような大人になれているだろうか。なりたくなかったずるい大人の姿を回避できているだろうか。
理想の大人は、決まってドラマや映画、文学の中にいた。正直でかっこよく、時には感情が揺れて、でもすぐに己の信念や仲間との関わりによって進む道を決める。そんな大人をエンターテインメントの中に発見して夢見ていた。
2008年に放送された、織田裕二主演の『太陽と海の教室』(フジテレビ系)という学園ドラマがある。織田が演じる“かっこいい大人”を体現するような教師の櫻井朔太郎が、最終話の授業で高校3年生の生徒たちにこんなメッセージを告げていた。
「どんな時代にあっても、世界中のどこにいても、どうか目の前にある鏡をしっかりと見てほしい。そして問いかけてほしい。『君は君らしくあるか?』『君は生きてるか?』『今を生きてるか?』と」
当時中学生の私にはこの言葉の真意がわからなかった。そんなこと考えるまでもなくまだまだ子どもだったのだと思う。脚本家が『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』(ともにフジテレビ系)と同じ坂元裕二だと知ったのは、ずいぶん後のことだった。
『大豆田とわ子』は、他の坂元ドラマと同じく、「こうあるべき」という正解を突きつけはしなかった。ただひたすらに、「自分は自分らしくあるか?」と、子どもの自分から大人の自分へと問い続けるようなドラマだった。
「ひとりで生きていけるけど……」という何度目かの自問
つき子「とわ子はどっちかな。ひとりでも大丈夫になりたい? 誰かに大事にされたい?」
大豆田とわ子(松たか子)は、徹夜で仕事をしてふらふらな状態で帰っていたとき、工事現場の穴に嵌りながら子どもの頃に母と交わした会話を思い出していた(第1話)。とわ子は母・つき子からの2択の問いに3択目で答える。
とわ子「ひとりでも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい」
思えばこの母からの問いと答えが、自分の姿を確かめる鏡のようにして時おりとわ子の前に現れていた。窓から網戸が外れたとき、エアコンのスイッチを押したとき、好きな人からプロポーズされたとき。
ひとりで生きるのが面倒くさくなることもある、誰かに頼りたくなるときもある、守ってもらいたくなるときもある。むしろそんなことばかりかもしれない。それでもとわ子は、その度に「自分は自分らしくあるか?」の代わりとして「ひとりで生きていける?」と自問し、己を裏切らない選択をしてきた。