向田邦子が映画女優マレーネ・ディートリヒに編んだ老いという名の「手袋」

文=久保豊
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 脚本家として数々の名作ドラマを生み出した向田邦子が残した多くのエッセイには、年をとることに対する向田の経験や視点が編み込まれている。例えば、魚焼きを両親に褒められ得意げだった10代の頃(「骨」)、父の焼いてくれたカルメ焼きの膨らみ(「お八つの時間」)、あるいは「子供のドブちゃん」のほろ酸っぱさ(「父の詫び状」)など、子供時代の思い出は食事やおやつの匂い、味、食感などとともに語られる。

 また、両親の行動に対する子供ながらの評価も軽視できない。例えば、祖母の通夜で厳格な父が上司に見せた深いお辞儀と母が子供たちに下げたお辞儀との対比を通じて、「自分が育て上げたものに頭を下げるということは、つまり人が老いるということは避けがたいことだと判っていても、子供としてはなんとも切ないものがあるのだ」と、大人になること、または老いる経験について子供の時分に抱いた感情を当時40代後半の向田は反芻する(「お辞儀」1977:1987、67)。

 向田邦子にとって、老いは何を意味したのか。その真相を完全に把握することは難しいが、1976年に書かれた「薩摩揚」の中で向田は次のように言う。

「平凡なお嫁さんになるつもりだった人生コースが、どこでどう間違ったのか、私はいまだに独り身で、テレビのホームドラマを書いて暮らしている」(1976:1987a、247)。

映画雑誌編集・フリーライターとしての向田邦子

 実践女子専門学校の国文科を卒業後、向田は教育映画を製作していた財政文化社に社長秘書として1950年に入社し、「平凡なお嫁さんになる」ような「人生コース」を歩んでいた。職場環境も良く、生活自体に苦労はなかった。しかし、向田は「毎日が本当に楽しくありませんでした」と当時を振り返り、結婚に代表される「いわゆる世間なみの幸せ」で満足すること、あるいはその充足を期待されることに対して二十代で抱いた不満と苛立ちを表した(「手袋をさがす」1976:1987b、508)。

 もっと、もっと、とさらに面白い何かの比喩として「手袋」を求め続けた向田は、敢えてこう表現するならば、規範的な「人生コース」から間違うことを選択した。朝日新聞の女性求人欄で見かけた「編集部員求ム」の広告に飛びつき、1952年5月21日、雄鶏社へ入社した向田は、新しい映画雑誌『映画ストーリー』(1952年6月創刊)の編集者として働き始めた。向田は1960年に独立するまでの9年間を、つまり二十代のほぼ全てを映画雑誌の編集に捧げた。

 その後の向田は、同年5月からすでに所属していた女性のフリーライター事務所「ガリーナクラブ」を基盤に、「向田邦子」として執筆業を本格化させていった(1991、106)。独立はラジオドラマ『森重の重役読本』、そしてのちにテレビドラマの脚本などを精力的に書き進めていく出発点となり、映画雑誌編集の経験はその大きな原動力となったはずである。なかでも、独立初期に得た『新婦人』でのコラム「映画と生活」は、その経験を十分に発揮できた機会の一つである。

 1961年4月号から8月号まで続いた全5回のコラム「映画と生活」は、当時封切られた外国映画の話題をふんだんに盛り込み、『新婦人』の女性読者に向けてファッションセンスの磨き方、デートの作法、会話術、レジャーの楽しみ方、そして女性の年齢について書いている。ここで興味深いのは、当時32歳であった向田が女性の若さと老いについて積極的に語ろうとする姿勢である。以下では、映画コラム第5回「『さよならパリ』の二つの世代」を見てみよう。

女性の年齢の演出について

 1961年6月21日に東和映画配給で封切られたジャン・バレール監督の『さよならパリ』(Les Grandes Personnes)は、パリを舞台に、百貨店のデザイナーとして働く30代のミシェール(ミシュリーヌ・プレール)と、長年付き合った恋人フィリップ(モーリス・ロネ)と別れ自殺未遂したミシェールを救うアメリカ人医師の娘である19歳のアン(ジーン・セバーグ)の世代間交流を描く。

 『さよならパリ』は、ミシェールに対してひどい仕打ちをしたフィリップへとアンが次第に惹かれ、そして最後にはアンはパリを去り、フィリップが再びミシェールへ戻ろうとする皮肉を含んだ物語だ。映画全体を通じて、ラウール・クタールによる撮影はアンを演じたセバーグの若い身体を舐めるようなクロースアップで映し、若さの生々しさを目尻や首筋にシワが目立つプレーヌとの対比で描き出す。加えて、白黒映画による照明の強いコントラストもそのような世代間の表面的な差異を強く打ち出す。

 「『さよならパリ』の二つの世代」における向田もまたセバーグとプレーヌという異なる世代間の年齢差がどのような視覚的要素によって表現されているかについて、次のように指摘する。

「髪型やドレスのデザイン、アクセサリイ、歩き方などの動作から体の線、そして、にじみ出る女性としての魅力まで、ハッキリと二人は区別されていました。(中略)二人ともそれぞれの年代にふさわしいおしゃれをしてみせてくれているということがいえます。いや、ふさわしい、というより、その年代を最も美しくみせる最大公約数のおしゃれ、と言ってもいいでしょう」(1991、137-139)。

 向田はセバーグとプレーヌの年齢差が物語を進める上での装置として用いられていることに留意しつつ、彼女の関心はあくまでも映画がその対比において二人の女優をどのように美しく見せているかについて、装飾品や髪型など、衣装やメイキャップの力を丁寧に『新婦人』の読者に訴える点にある。その上で、向田は「特に女は、二十五歳をすぎると、皮膚も体の線も実に正直に歳をとってゆきます」と真摯に述べ、「若さだけを誇り、老いを恥じるのはたしかにナンセンスです」と広い年齢層の読者に向けて歳を重ねることの楽しさと面白さを強調する(1991、142;145)。

 「『さよならパリ』の二つの世代」は向田が残した映画評の中でも最も重要な一本である。それはひとえに今もなお映画女優につきまとう年齢の呪縛を指摘しているからだ。イングリッド・バーグマン、マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーンなどの実年齢を述べつつ、向田は「若くみえ年相応にみえる相違はあっても、みなそれぞれに美しく魅力に溢れている」と控えめに表現する(1991、144)。

 同時に、「彼女たちは職業柄、年齢から来る容色のおとろえを防ぐ努力は恐らく人一倍しているでしょう」という向田の指摘は、若さが高く評価されてきた映画産業において、特にその若さの呪縛から決して逃れることのできない映画女優たちを苦しめる構造を婉曲的に批判しているようにも読める(1991、144)。

老いが滲み出す手の表象

 そのような若さの呪縛に囚われた映画女優の一人がドイツ出身の女優マレーネ・ディートリヒである。ヴァイマル共和国時代に映画デビューし、1930年にパラマウント社にアメリカ合衆国へ招かれて『モロッコ』(Morocco、ジョセフ・フォン・スタンバーグ)に主演して以降、ファム・ファタールの役柄と密接に結び付けられ活躍したハリウッドの「セックス・シンボル」の一人である。また、『モロッコ』で見せる女性へのキス以降、彼女はレズビアンやバイセクシャル女性のファンを魅了し続けた側面もあり、ジェンダーベンディングな役柄も評価されてきた(Kuzniar 2007)。同時に、黄金期のハリウッド映画産業が映画「女優」に要請した若さの維持に応えるように、彼女は加齢がスクリーンやゴシップ誌で露呈されるのを嫌い、金髪のカツラや体型の維持などによって老いを感じさせなかった。

 「『さよならパリ』の二つの世代」において向田はディートリヒの若さを以下のように表す。

「マレーネ・ディートリッヒをみて下さい。彼女、五十七歳にみえますか? 一世を風靡した美しい脚は今も全然崩れをみせず、若々しい体の線も変りません。世界で一番チャーミングなおばさま、という称号をもっているそうですが、彼女の場合はまさしく世間なみの五十代のおしゃれをしたらその個性は半減してしまうことでしょう」(1991、141-142)。

 このように向田はディートリヒの魅力の一つが加齢をものともしない姿に見出せると読者に伝えている。そのような魅力に引き寄せられたのは向田だけではない。

 フェミニスト映画理論家のジュディス・メインが「マレーネ・ディートリヒはいつ老女になったのか」という問いからディートリヒの老いをめぐる論考を始めるように、1901年生まれのディートリヒのキャリアにおいて彼女の年齢に対する大衆やメディアの関心は、特に彼女が1978年に表舞台から去って以降強くなったと言われている(2007、347)。例えば、マクシミリアン・シェル監督のドキュメンタリー映画『Marlene』(1984年)は、デビュー当時から1979年の『Just a Gigolo』(デヴィッド・ヘミングス)までに出演した映像クリップを時系列に並べて若さに溢れる彼女の姿を提示する一方で、決して画面内に現れない老年のディートリヒのインタビュー音声によって形成される肉体の不在が皮肉にも彼女の若さの喪失を強調した。

 向田がディートリヒの若々しさを1950年代にすでに指摘した一方で、それは決してディートリヒがそのキャリアにおいて老いを絶対的に回避できたことは意味しない。実際、ディートリヒは実生活において年齢を語ることを避けたが、映画の中ではベティ・デイヴィス、ジョーン・クロフォード、グロリア・スワンソンのように次第に若い女優と対比して配置される役をこなしていく。

 例えば、アルフレッド・ヒッチコック監督の『舞台恐怖症』(Stage Fright、1950年)では、若い役者志望のイヴ(ジェーン・ワイマン)に殺人容疑で詮索される中年の女優シャーロン・インウッドを演じた。ハリウッドの古典的な慣習で言えば最終的に化けの皮が剥がされるべきはシャーロンであり、映画はその通りに進むが、若い女優との対比においても劣らないディートリヒの自信は、タバコの煙に彼女の顔が包まれるクロースアップが見せる美しさによってその揺るぎなさを感じさせる。

 1950年代にディートリヒが演じた役柄の中で最も彼女の老いを強調する映画は、1957年公開の法廷劇『情婦』(Witness for the Prosecution、ビリー・ワイルダー)だろう。ディートリヒは殺人容疑をかけられたレナード(タイロン・パワー)の妻クリスチーネを演じ、年下の夫の無罪を主張するために証言台に立つ。検察側の証人として現れるクリスチーネの証言によってレナードが一転して有罪になりかけるものの、レナードの弁護士ウィルフリッド卿の前に現れる中年女性から入手したクリスチーネのある手紙が証拠となり、レナードは無罪放免となる。

 『情婦』においてもディートリヒは表面的には老いを感じさせない。少なくともそのように見える。しかし、ワイルダーは加齢を感じさせる身体の部位として、ディートリヒの手を巧みに演出する。ディートリヒ演じるクリスチーネが初めて弁護士事務所を訪れる場面において彼女はずっと白い手袋を身につけており、退出する際にもドアを支える白い手袋がフレーム内で強い存在感を放つ。一方で、検察側の証人として現れ、証言台で宣誓する場面において、彼女は黒い手袋を右手だけ外し、法廷場面では左手の手袋は付けたままである。彼女の身体をバスト・ショットで捉えることで、手袋の外された右手と手袋を付けたままの左手をフレーム内で見せない演出はどのような効果を持つのか。

 ウィルフリッド卿がヴィクトリア駅で面会する怪しい中年女性は、実はクリスチーネが変装していたことが映画のクライマックスで分かる。その中年女性は手袋をしておらず、面会場面では深いシワだらけの手がバスト・ショットですらも明確に提示され、顔の傷をウィルフリッド卿に見せる際には画面中心に老いた手が大きく配置される。

 ウィルフリッド卿はこの中年女性から入手した手紙を使って最終の法廷場面で彼女の偽証を明らかにしレナードの無罪を勝ち取るのだが、涙を流し偽証の罪を受け入れる(ように見える)クリスチーネの両手は黒い手袋に包まれていることを観客は見逃してはならない。なぜなら、その偽証やレナードの罪の真実が明らかになるクライマックスにおいてクリスチーネは素手で現れ、駅で出会った中年女性が彼女であったことを暴露するからだ。ミディアム・ロングショットで捉えたクリスチーネ/ディートリヒの手はとても艶やかでシワも少なく見えるが、彼女が真実を話すショットにおいて駅の場面同様に画面中心に提示される手は、化粧によって年齢の隠された顔と異なり、くっきりと深いシワが刻まれている。

 このクライマックスで提示される皮肉は、偽証の罪を被ってまで無罪へ導いた夫レナードには若い愛人がいたことが明らかになる。レナードの肩に置かれた彼女の手はシワ一つない、張りがあり艶やかで若さで溢れている。レナードに裏切られたクリスチーネは悲哀と怒りに導かれるまま、真っ黒な手袋に包んだ手でナイフを握り、レナードを「死刑」にする。

 向田邦子がディートリヒの出演作品をどれだけ観ていたかは定かではない。だが、向田がディートリヒに対して幾らかの特別な関心を持ち続けたことは確かだろう。向田が初めて刊行したエッセイ集『父の詫び状』(1978年)の最初のエッセイ「父の詫び状」で思い出されるのが『間諜X27』(Dishonored、ジョセフ・フォン・スタンバーグ、1931年)に登場するディートリヒの姿である。加えて、向田は『モロッコ』に魅せられてモロッコ旅行にも出かけているくらいだ(「ないものねだり」)。

 向田が『情婦』のディートリヒの演技を観ていたとしたら、何を書き残していただろうか。向田はクリスチーネの手袋にどのような思いを馳せただろうか。「『さよならパリ』の二つの世代」以降に書かれた向田のエッセイには自分の老いを感じる瞬間を書き留めたものや、森光子や森繁久弥といった役者たちが表現する老いについて書かれたものが少なくない(「若々しい女について」等)。『家族熱』(1978年)の志村喬や『阿修羅のごとく』(1979年)の加藤治子が表現する老いの余白と深さを目にすれば、老いへの関心がエッセイ以外の創作にも影響を与えていたことが分かるだろう。

 向田はずっと「手袋をさがしている」人だった(1976:1987b、517)。気にいった手袋を探し続けることは、彼女にとっては努力を重ね、怠惰を拒絶し、もっと面白いことを追求することを意味した。結婚という物差しでしか測れない平凡さや「いわゆる世間なみの幸せ」で満足する「人生コース」を選ばないことに成功し、身体的な老い自体は感じつつも、向田邦子は創作を通じて衰退することを拒み続けることを実践していたのではないか。だからこそ、彼女は老いをものともせず若々しくあり続けようとしたディートリヒに魅かれ、想像上の「手袋」を探し続けていたのかもしれない。

引用文献

向田邦子「お辞儀」『父の詫び状』(向田邦子全集第1巻)、文藝春秋、1977:1987、57-67。
向田邦子「薩摩揚」『父の詫び状』(向田邦子全集第1巻)、文藝春秋、1976:1987a、239-248。
向田邦子「手袋をさがす」『夜中の薔薇』(向田邦子全集第2巻)1976:1987b、508-518。
向田邦子『向田邦子 映画の手帖──二十代の編集後記より』徳間書店、1991年。
Kuzniar, Alice A. “’It’s Not Often That I Want a Man’: Reading for a Queer Marlene.” Dietrich Icon, edited by Gerd Gemünden and Mary R. Desjardins. Durham and London: Duke University Press, 2007, pp.239-258.
Mayne, Judith. “’Life Goes On without Me’: Marlene Dietrich, Old Age, and the Archive.” Dietrich Icon, edited by Gerd Gemünden and Mary R. Desjardins. Durham and London: Duke University Press, 2007, pp.347-362.

*本稿の執筆に際して、実践女子大学・実践女子短期大学部図書館が運営する「向田邦子データベース」を活用した。https://opac.jissen.ac.jp/repo/repository/mukoda/?lang=0

*『モロッコ』と『舞台恐怖症』はAmazon Prime Videoで、『情婦』はAppleTV+で配信中。

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