喜劇で悲劇的な東京オリンピック・パラリンピックを「ネタ」で終わらせてはいけない

文=平河エリ
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写真:代表撮影/ロイター/アフロ

連載「議会は踊る」

 先人に学ぶと、喜劇と悲劇というのはどうやら近しいものである。

 「人生はクロースアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇だ」というチャップリンの言葉や、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの言葉などにも、悲劇と喜劇の近接が示されている。

 悲劇には「人生の不条理さ」に本質があり、喜劇には「人間の不合理さ」に本質がある。不合理な意思決定により、我々の人生は時に不条理になるという意味で、この2つは同根である。

 チャップリンの「独裁者」は、コミカルでユーモラスな喜劇だ。それは、彼が風刺したヒトラー、そしてナチ党の本質である「アーリア人の純血」そのものが滑稽だったからだ。しかしナチが起こした虐殺の末路は悲劇的である。

 オリンピックをめぐる意思決定は、人命が失われるという悲劇を起こす可能性がありながら、登場人物の発言だけを見るとドタバタ喜劇のようである。

 例えば、「オリンピック会場で酒販売の解禁を検討」というニュースがそうだ。丸川珠代五輪担当大臣は「大会の性質上、ステークホルダーの存在がどうしてもあるので、(大会)組織委員会としてはそのことを念頭に検討すると思う(6月22日朝日新聞)」と述べた。

 確かに、スポンサーからすれば、高いお金を出して酒が禁止ということになれば悲劇である。しかし、引いた視点で見れば「飲食店で酒を提供していないのに、オリンピック会場で酒を提供する」というのは極めて滑稽な話である。

 東京五輪選手村「村長」の川淵三郎氏は、「国民の大半は開催に賛成していなかったが、ここに来て『オリンピックはしょうがないかな』という形で認めてもらっている(6月20日毎日新聞)」と述べている。

 意思決定のプロセスが滑稽になれば滑稽になるほど、我々はそれをバカバカしいと感じ、つい「ネタ」にしてしまう。そして、その空気感が我々を諦めへと誘ってしまう。

 聖火リレーは人目につかない場所で行われ、聖火を持った走者がグルグルとトラックを回る。入国してくるアスリートの陽性が次々と発覚し、自治体は右往左往する。全ては滑稽である。しかし、このイベントにより感染が拡大すること、そして小国の国家予算規模の資金が投じられることを考えれば、笑うより先に怒りが出てくるのではないか。

 国王に宮廷道化が直言したように、笑いやユーモアは特に真実を含む。そして、苦しい状況を一時忘れたり、切り抜けるのにも、笑いやユーモアは必要だ。

 しかし同時に、我々は、深刻な事態に直面するとそれを笑ってごまかすという性質があり、これが、現実を変える原動力になる怒りを鎮めてしまうことがある。

 「馬鹿馬鹿しいこと」は「怒っていけない」ことと同義ではない。馬鹿馬鹿しいことに対して笑ってネタにすることが、怒ることよりも「大人の態度である」という論調に私は与しない。

 「独裁者」は素晴らしい映画である。ユーモアがあり、風刺があり、最後にはハッピーエンド(?)で終わる。

 しかし、映画が風刺した現実は決してハッピーエンドで終わらなかった。スピーチがうまいだけのちょび髭の小男は、600万人以上のユダヤ人を虐殺し、世界を崩壊させかねない大戦争を引き起こしたのだ。その結末を知っていれば、あなたの笑いは止まるはずである。

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