
GettyImagesより
セントラル・パーク付近を歩いていると、馬に乗った警官が突然現れてギョッとすることがある。大都会を馬が闊歩する風景は優雅ではあるが、馬の“落とし物”がそこらじゅうを汚すのを見ると、一体どこで飼ってるのだろう、さぞかし難儀だろうなと不思議に思わされる。
今年公開されたばかりのNetflix映画『コンクリート・カウボーイ(以下、CC)』では、そんなアメリカの大都会で馬を育てる人々の暮らしぶりを知ることができる。黒人中年男性が貧困地区のアパートで馬を飼っている。ダウンタウンのど真ん中に、馬小屋さえある。驚くことに、それは実在する黒人カウボーイのコミュニティについて描いたものである。原作は2011年のフィクション小説『ゲットー・カウボーイ』。一種の現代史モノだ。
これを聞いて「風変わり」だと感じたのなら、それはあなたが「カウボーイ」とは「アメリカ西部/白人/男性」の文化だと考えているからかもしれない。本作は、そんな私たちの「常識」に次々と揺さぶりをかけてくる。
現代アメリカに生きる黒人カウボーイの暮らしを描きつつ、「カウボーイ」の歴史が過度に白人中心で描かれ歪められてきたバイアスについても注意が向けられる。そして、過去に目をやると同時に、この地域で現実に起こっている社会問題へも様々な目配りがある。
こうした奥行きがある作品なので、歴史や社会背景がわかるとより深く理解して楽しむことができるのだが、作品内ではそれほど詳しく説明されない。本稿の解説が、本作を立体的に楽しむ補助線になれば嬉しい。
フィラデルフィアで馬と暮らす人々
舞台はペンシルヴァニア州フィラデルフィア。建国期に首都だった時代もあって今も古い街並みが残るアメリカ東部の大都市だ。ダウンタウンからもほど近い、細い通りに家々が密集する黒人地区のただ中に、馬を飼い暮らすコミュニティがある。
主人公は15歳の少年コール。デトロイトの高校を素行不良で退学になって母親にフィラデルフィアに連れてこられるが、半ば置き去りにされる形で疎遠だった父親ハープのところに引っ越すことになる。父の小さなアパートには巨大な馬がいて最初はビビるのだが、「フレッチャー・ストリート・アーバン・ホース・ライディング・クラブ」ではみんなで協力して馬を育てているのだと知る。
インナーシティのラフな住宅街の一角で小さな牧場を営み、メンバーたちは馬の世話をしているようではあるのだが、道端で座ったり夜な夜な焚き火で駄弁ったりと、正直何をしているのかわからない。環境変化に戸惑うコールに幼馴染みスムーシが“つるもう”と誘ってくれるものの、彼はドラッグの売人など犯罪に関わっていて、その「居場所」は危ういものだ。コールはスムーシとの関係を嗜める父に反発しながらも、馬を世話したりメンバーと付き合いを深めることで徐々に成長し、血のつながらない人々同士を「家族」としてケアする父のことも理解するようになり、次第にクラブを「居場所」と思うようになる……。こうしたストーリーである。
当事者が演じる
この話に深みを与えているのは、都会で馬を飼うこのクラブが実在のものだというところだ。クラブは百年ほど前に結成された。きっかけは、1910年代以降多くの黒人人口が南部諸州から北部の工業地域へ移住した「大移動」。彼らが都市部に動物を連れてきた。このクラブが2000年代に再建されたのである。
本作は、端役というには一言一言セリフの重みがあるキャラクターが満載である(登場シーンが少ない人も多くて、もったいないと思うほどだ)。ホースクラブのメンバーたちが駄弁っている会話では、ポロッと一言、とても心に刺さる台詞を言う。「俺たちはカウボーイの孤児だ。最後の生き残りだよ」。エンドロールのインタビュー映像で、そのうち何人も本当のクラブメンバーだったということが明らかになる(どの人物かは伏せておくのでお楽しみに)。なるほど自分の言葉でしゃべっていたのだ。当事者が演じることで、台詞と演出の両面から「声」に強度を持たせている。
近年こうした映画の手法が目立っている。前回紹介した、アメリカの資本主義の中で暮らす「流浪の民」を描いた『ノマドランド』や、現代に生きるアイヌ民族のリアリティを伝えた『アイヌモシリ』では、登場人物の多くが本人役を演じた。『サウダーヂ』や『バンコクナイツ』で知られる空族の一連の作品も思い出される。エンターテインメントの領域で、「社会問題」が単なる設定でなくきちんとした主題として扱われ、かつ本人の言葉を大切にする表現が普及したということは、誰かに代弁されたものでない言葉、すなわち、当事者の声を通して「他者」について知る機会が増えたということだ。
本編が終わると、作中の痛ましいエピソードと同じ体験をしたんだとか、ここで描かれていることは実際に起こっていることなんだという証言を聞いて、観客は映画を観終えることになる。
『ブラック・クランズマン』の終幕にも似ている。こちらは1970年代を舞台にした痛烈な人種差別風刺劇。監督スパイク・リーはコメディタッチなエンタメ作を、シャーロッツビルでのヘイト殺人事件の衝撃的な映像でしめくくった。公開は事件からちょうど一周年。表象が現実と地続きだと観客の心に刻みこんだ。一方CCでは、役者が実は当事者だったのだと驚きと共に知ることになる。今観た「お話」を他人事にしてはまずいと思わされる。
こうした「当事者キャスティング」普及の背景には、別の属性にある人々がその役を演じることとは当事者の「声」を奪う暴力や盗用なのだという理解が普及したことがあろう。ハリウッドキャスティングにおけるホワイトウォッシング(=「白塗りする」という意味)問題はその典型だ。当事者キャスティングは、政治的な正しさ(Political Correctness)という規範のコードを守りながら弱者の声を救い上げる方法論として定着しつつあるのかもしれない。
手法としては『フランシス・ハ』などのマンブルコアのように、極端な口語の採用や映画の私小説化のような流れとも呼応するものなのかもしれないが、いずれにせよ、『ノマドランド』のような作品がアカデミー賞の作品賞を受賞したことは、文化表象における当事者性の観点でも象徴的な出来事だった。
歴史の偏りを無くす試み
当事者が語るこの物語は、これまでに記憶されてきた歴史の偏りを強く意識したものでもある。つまり、黒人コミュニティのホースライド文化を描くことは、一般的な「カウボーイ」のイメージが、農村部・西部の白人男性に固定されていることに対するアンチテーゼとなる。
州警察のルーツ、西部開拓の頃から第一次大戦後くらいまで活躍した馬乗りの自警団テキサスレンジャーはドラマ『ローン・レンジャー』で知られたことで「白人化」したが、実際には四人に一人が黒人だった。この話もクラブのメンバーたちの会話に登場する。この話題は、昨年リブートして人種問題への風刺を大胆に取り込み歴史認識の問題に切り込んだドラマ版『ウォッチ・メン』でも大きく扱われている 。
歴史学の用語で説明すれば、「ブラックヒストリー(黒人史)」を描くことで、白人中心に描かれてきたアメリカ史の偏りをならすものである。主体的な文化の担い手としてカウガールを描いた「女性史」としての側面もある。ノンフィクション小説をエンターテイメント映画としてドラマ化し、より“政治的に正しい”歴史を描こうとするという点では、非専門的な民衆の活動に焦点を当てて歴史像を捉え直す「パブリックヒストリー」の観点から現代史を見直しているといえる。
一般的に言うと、「歴史修正主義(historical revisionism)」という言葉には、とても悪い響きがある。映画『否定と肯定(原題:Denial)』が描いたように、「南京大虐殺やホロコーストはなかった」と過去の悲劇を都合よく改竄・否定して書き換えようとする、極めて危険な思想だ。SNS上で陰謀論とも合流してその影響力は肥大化している。
しかし考えてみれば、「歴史の修正」とはそうした有害なものだけでなく、女性や人種的少数派といった、これまで光を当てられていなかった者に寄り添ったものもあろう。英語では「歴史を修正する」という表現はこうした文脈でも普通に用いられる。カウボーイが最も頻繁に登場する映画のジャンルはもちろん西部劇だが、「修正主義的西部劇」という言葉もあるほどだ。
例えばコーエン兄弟による2010年の『トゥルー・グリット』。主人公マティ・ロスは父を亡くした10代の女性で、数字に強く知的で弁も立ち、馬にも乗れるし銃も扱い大人の男性と対等にやりあい、自身の手で仇をうって尊厳を守りきる。そんな人物もいたはずだとのごとく「修正」を見せていて痛快だ。一方原作が同じ1969年の『勇気ある追跡』(原題は同じ)では、連れそって彼女を支える二人の男性カウボーイが中心に描かれている。CCでもホースクラブのメンバーが言う。「(『勇気ある追跡』主演の)ジョン・ウェインがカウボーイをホワイトウォッシュしたんだよ!」
黒人の乗馬の歴史が長らくかき消されてきたのだ。「カウボーイ文化は、元々黒人が担ってきたカウハンド(調教)から来てるんだから」「白人の調教は、馬を支配して従わせる。黒人はそれは違うと知っていた。馬の本当の魂や性質は『愛』を通してしかわからない」。CCの中では警察が馬を管理する小屋も登場するが、そこでは白人警官が警備し、馬たちはしっかり鉄格子に押し込められている(そうそう、実はNYの警察の馬小屋もマンハッタンど真ん中にある)。
コンクリートジャングルのふもとで暮らすカウボーイ・カウガールを描いた本作は、「現代」の「都市」に生きる「黒人」や「女性」という、四点から「カウボーイ(馬乗り)」文化を描き直しているのである。
1 2