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両親から愛されている実感がなかったことから、自分が自信が持てなかった、著者のうさぎママ。3歳の頃に実母と別れ、その1年後から実父と2度目の母に育てられましたが、思い返せば「逃げる人たち」だったのです。
<この連載について>
特別養子縁組とは、子どもの福祉のために(親のためではなく)、子どもが実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、養親(育ての親)と実子に等しい親子関係を結ぶ制度です(※)。
そんな特別養子縁組制度が成立した翌年の1988年、うさぎママ夫妻は児童相談所の仲介で0歳の娘・アンちゃんと出会い、その後、親子になりました。この連載は、アンちゃんが大人になるまでの日々を感情豊かに綴った書籍『産めないから、もらっちゃった!』(2012年、絶版)の改定版を公開するものです。
※厚生労働省 特別養子縁組制度について
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000169158.html
第1章 アンに出会うまで
高校に入学した頃、生理不順になった私。でも、恥ずかしいのと怖いのと、そして自分は結婚なんてしないはずという思いから、ほったらかしにしていました。
自分に自信がないんだから結婚相手として選ばれるわけがない、つまり赤ちゃんを産むことはない、だから面倒くさい生理なんてないほうが楽だと思ったのです。本当に考えなしの怖いもの知らずですね。
一見、普通に楽しい高校生活を送っているかのように、まわりからは見えたはずです。それなりに明るくて、それなりに勉強して、クラブ活動で英語劇の舞台に立ったりして……。でも、ずっと自分に自信を持てなかった幼い時代をひきずっていました。
自信を持てなかった理由を考えてみると、「両親に愛されているという実感がなかった」ことにつきますね。理解してくれる大人がひとりもいなかったと思います。
私と弟は、私が3歳の頃に実母と別れました。その約一年後からは二度目の母に育てられましたが、実父も母も「臭いものにフタをする」タイプ。だからなのか、父とも母とも、どこか心通わぬ関係でした。
私は、表面的にはいい娘だったので、表立って迷惑をかけたことはなかったと思いますが、今でも忘れられないことがあります。小学校5年生のとき、何かがプツリと切れてプチ家出をしました。早朝、だれにも告げずに家を出て、祖母の家に向かってひたすら歩き、たどりついたのは昼前。平日の昼、荷物も持たずにひとりで現れた孫に、祖母はびっくり! でも何も聞かずに、とりあえず昼ごはんを用意してくれました。
祖母が作ってくれた昼ごはんを泣きながら食べましたが、食べ終わる前に父が現れ、連れ戻されました。叱られるかと思いましたが、まるで何もなかったかのようにふるま父母。「なぜ祖父母の家に行ったのか」「どう思っているのか」など、何も聞かれませんでした。
あのときに叱ってくれていたら、抱きしめて泣いてくれていたら、話を聞いてくれていたら……、どんなにか私は父や母に対して心を開けただろうと思わずにはいられません。
今から思うと、実父も二度目の母も「逃げる人たち」だったんですね。世間体を取り繕えれば、それでよし。子どもの本当の気持ちを知って、ややこしい対応を迫られるよりは、知らないでおこう。還暦を過ぎて、じっくりと思い返すと、そういうことだったんだなという結論に達した私です。
父も母も、長女である私の生理不順に気づくことはありませんでした。聞き分けのいい長女よりも、二度目の母が産んだ6歳下の次女のほうにアンテナを伸ばしていた−−意地の悪い見方をすれば、そういうことになるのでしょうか。私が20歳になっても、妹はまだ中学生。家のローンも教育費も、もちろん老後のこともあり、忙しい両親。しっかりした長女だからと、まったく干渉されない自由な生き方をしていた私。
いえ、生理不順を放っておいたのは、自分の責任だとわかっています。でも、その点は別にして、正面から向き合ってくれなかった両親の姿勢には、うらみがましい気持ちが消えませんでした。“子は親の背中を見て育つ”と言いますが、まさに私も両親を真似て逃げる生き方をしていたってことですね。だから、生理不順もそのまま放置。
もちろん不妊の予感もあり、自信のない自分が嫌いで、結婚したいなどとはまったく考えていませんでした。ボーイフレンドたちとの付き合いでも、話題や雰囲気が結婚へと流れないように、うまく舵取りをしていました。お付き合いは楽しいし、おしゃれをして出かけるのも大歓迎! でも……。重苦しいことになりそうだと、何となく離れるようにして、お付き合いをやめる。
そんなことを繰り返していた気ままな私に、25歳の誕生日が、そしてマシューとの出会いが近づいていました。