第三に、ここまでの社会に関する言葉から離れ、文化の消費に関する言葉になりますが「ファンダム」です。「ファンダム」とは《「ファン同士の関係あるいは集団の様態、そしてそれらの関係をファン自身がどのように体験しているのか」に関わるすべての現象》(池田太臣「ファンシップ/ファンダム:ファン研究のプラットフォームの整備に向けて」、(『女子学研究』(甲南女子大学女子学研究会)第7巻、pp.1-6)p.1)と表されるもので、《ファンが自分自身と対象との関係をどのように体験しているのか》(池田、前掲p.2)と表される「ファンシップ」と対置される概念として表されます。「ファンダム」とはファン同士の関係性であり、文化圏であるとされます。
前編で言及した高島鈴の「招かれざる客を招く」においては、我が国の漫画、そして言論全体の「ファンダム」とは、《「公式」=作り手を頂点に置いたヒエラルキーであり、主従関係》(高島、前掲p.377)として、「公式」ブランドに従順な読者を囲い込むことにより、ファンダムの内外の言説は「公式」を肯定するか/否定するかという単純な線引きによって規定されてしまい、《本来公共に問われるべき問題が、ファンダムの中心と終焉でのみやりとりされる「内輪揉め」に矮小化されてしまう》(高島、前掲p.377)としています。このような態度は、特に漫画などの性的表象とされるものに対するあらゆる疑問が「ツイフェミ」という言葉に収納されて「異常」なものとして処理されてしまう事象をよく示しています。
ただ、「公式」を頂点とする関係性は、そこに「政治的」な要素が加わると容易に逆転されうるということも指摘しておきたいと思います。
例えば、2019年の参院選において、漫画『遊☆戯☆王』の作者である高橋和希が、自身のインスタグラムにおいて、登場人物に《「本当に今の売国政権で日本の未来は大丈夫かと思うわ!ヤバイ〜〜!!」》《「独裁政権に未来は暗黒次元(ダークディメンション)!」、「ホント…日本て住みづらくなっちゃった…」》(画像はすでに消去されているため、引用は篠原修司「『遊戯王』作者の高橋和希先生、キャラクターに政権へ攻撃的な発言をさせて炎上。謝罪へ」)などといった台詞を喋らせたイラストが大きな批判を浴びて、高橋が「キャラクターに政治的表現をさせてしまった」として消去しました。
これについて、篠原修司は《たとえば「Aという理由があるから政党Bを支持します!」という意見であれば、高橋和希先生の考えのひとつとして受け入れられる可能性はあります。/ けれども今回の表現は「売国政権」、「独裁政権」という攻撃的な発言です。同様の思想を持つ活動家の方たちは喜ぶかもしれませんが、一般の人たちからすると「突然、何?」との驚きが先にきて共感されません》(篠原前掲)と述べていますが、このようなどぎつい表現で、しかも作者本人ではなく二次創作(というよりはコラージュが多い)で左派やフェミニストなどを誹謗する表現は多数見られます。
また、高遠るい『はぐれアイドル地獄変』12巻(日本文芸社、2021年。なおページ数はBOOK☆WALKER配信の電子版に準拠)、登場人物の生い立ちに関する描写としてpp.71-77でミャンマーの問題を想起させるような描写があったり、その人物に絡めて日本の難民行政の問題に点に関する描写がpp.123-124にあったりします。それは物語の上では余計な描写ではないものなのだが、これに対してAmazonでは次のようなレビューが投稿されています。
《高遠先生は、政治的なネタになると、かなりヒートアップしてしまいます。ですが、エンターテイメントとして微妙な感じになる事は自覚して欲しいです。なんとも古い便所の落書きの様だと感じました。
そういうのはTwitterでやれば良いのに。》
《程度の低いイデオロギーの主張をエロ漫画に無理やりぶち込むなよ。》
《作者の思想については他作品などで知っておりましたものの、この作品についてはエンタメに徹してそういうのは持ち込まないのではと思っておりましたが、私の希望的観測だったようです。》
《トーナメントも佳境で試合は最高に面白かったんだけど、作者の悪いクセというかリベラル仕草、活動家モドキの顔がチラホラ出て来たのは残念な感じ。》
このようなレビューに対しては作者である高遠自身も《「マンガ読者」一般に広く深く浸透してるこの政治色アレルギー、(彼らの考える)リベラルアレルギーって、やはり心配になってしまいますね》と述べていますが、「リベラル」とされる表現や内容については批評と言うよりも否定の対象になりやすいです。
ここで注目すべきは篠原修司や高遠本のレビュワーが使っている「活動家」という表現でしょう。
我が国のネット文化においては、現与党(特に第二次安倍晋三政権以降のそれ)への批判や、反差別、フェミニズムなどの主張は異常な「活動家」の主張として蔑まれる傾向にあります。「ツイフェミ」と蔑まれるような女性差別やそれを想起させるような表象への批判などはまさに「活動家」を毛嫌いする文化から来ているものと言えます。
ここから見えるのは、個々の作品のファンダムよりも、さらに大きい「日本のメディアカルチャー文化」特に「日本の男性向けメディアカルチャー文化」的なもののファンダムがあり、それはアンチリベラルやアンチフェミニズムの要素を含むものであるということです。
ただ、先に見たとおり、政治的には「リベラル」な言動をしている人も、アンチフェミニズムの立場を取る人は少なくありません。そこに第4の観点「有害な男性性」が入ってきます。
男性の著者であるグレイソン・ペリーが男性に対して「男らしさ」からの脱却を説いた『男らしさの終焉』(小磯洋光:訳、フィルムアート社、2019年、原著2016年)において、男性の権利運動とは、女性の運動やフェミニズムとは対照的に、《男性性の静的で硬直したビジョンとつながっている》《昔からあるもの、すなわち、もはや必要でもないし求められてもいない男性性の核になる考えを保とうとしたいようである》(グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(小磯洋光:訳、フィルムアート社、2019年、原著2016年)pp.145-146)と指摘しています。この記述は、アメリカのネット上の反フェミニズムについても触れられた上でこのように書かれていますが、その構図は日本にもとてもよく当てはまるものです。
同書においては、消費文化の進展によって肉体労働が減少し、現代の男性は仕事によって「男らしさ」を満たすことが難しくなっているという指摘も書かれていますが(p.97)、ネット上においては簡単に「(旧来的な)男らしさ」を得られるものとしてアンチフェミニズムに手を出すというものがあるかもしれません。このことは、先に挙げた荻野稔をはじめ、「ツイフェミ」との“闘い”で頻繁に戦争、それも殲滅戦のメタファーが持ち出されることが傍証になります。ただ、そのような行為は、インスタントに男性性を獲得しつつもその影響でホモソーシャル(男性同士の性的でない繋がり)にどんどん縛られるものであるように見えます。
また、私が指摘しておきたいこととして、メディアカルチャーには、漫画やアニメなどのいわゆる「オタク文化」と呼ばれるものもさることながら、それと同時に「論壇」も含みます。
元々香山リカなどといった消費文化評論を起点とする論客はいましたが、1990年代半ばにおいて、保守系の若手論客を多く起用した『宝島30』(宝島社)や、2000年代に入って、東浩紀や鈴木謙介、宇野常寛などといった特に「オタク文化」「ネット文化」論経由で「論壇」に入っていった論客が多く現れ、その多くは男性でした。特に2000年代終わり頃には「ゼロ年代の批評」を掲げ、同人誌即売会やライブイベントなどを含めたメディアイベントが行われました。
さらに『正論』や『諸君!』などの保守・右派系の雑誌がインターネット掲示板におけるアンチリベラル的な言説を称揚するような書き手を起用したりもしました。他方で、2000年代末期に名前を売った「若手論客」は「イデオロギーフリー」や「正しいリベラル」を掲げて、主に旧来の左派/リベラル派を批判していました。ここまで挙げてきた論客において、左派やフェミニストを「ジャッジ」するような態度の書き手が少なくないことは、その名残と言えます。
しかし、全体的にアンチリベラルやアンチフェミニズムの傾向を強める我が国のメディア文化において、安直に「まともなフェミニズム」と「まともでないツイフェミ」を区別することがどれだけ危険なことかは言うまでもありません。そもそも「フェミ」と「ツイフェミ」が極めて未分化で操作的な概念であるということと、後者がほとんど罵倒表現として使われてきた経緯で中身のない歪んだものとなっていること、そして知識人や文化人がそのような流れを、むしろ推し進めているのですから、尚更その危険性は高くなっています。