これからの男の子のために
「ツイフェミ」という言葉は、それ自体が我が国の男性向けのメディアや言論文化の持つ攻撃性を示す言葉としての性格をどんどん強めています。それは「リベラル」を自称する人においてすら、その文化における「有害な男性性」に囚われて、あからさまな差別意識や攻撃性をあらわにしています。
ただその核が誤った(そして「上から」作られた)社会意識と「公式」を絶対視するメディア文化の構造、男性中心のコミュニケーションにあるということを考えれば脱却の糸口は掴めてきます。
ここ最近になって、男性内のコミュニケーションの問題について書かれた書籍も出されており、その中から脱却のヒントを掴むことができます。
例えば、「男たちの「失敗学」入門」というサブタイトルがつけられた、清田隆之『よかれと思ってやったのに:男たちの「失敗学」入門』(晶文社、2019年)においては、男性と女性における認識の違いなどから生まれる「すれ違い」について男性側の問題点を挙げており、その中には言論にも参考になるものがあります。「何かと恋愛的な文脈で受け取る男たち」(清田、前掲p.24)において、その原因の一つに「恋愛的な自己評価が低い」というものを挙げ、次のように述べています。
この社会には「恋愛的なアクションは男性からするべきものであり、それを女性に受け入れてもらって初めて恋愛が前に進む」という考え方がまだまだ根強く存在しています。こういった価値観においては「男=お願いする側、女=お願いされる側」と位置づけられているため、我々男性はなんとなく“下”のポジションに置かれているような感覚を持ってしまいます。極端に言えば、男性は恋愛や性に関して女性に「嫌がられること」や「拒否されること」がデフォルトという感覚を持っているような気がするわけです。(清田隆之『よかれと思ってやったのに:男たちの「失敗学」入門』(晶文社、2019年)p.30)
このような意識は、個人間の関係で「何かと恋愛的な文脈で受け取る男たち」だけでなく、男性社会における社会観にも影響を及ぼしていると見られます。かつて「負の性欲」という言葉がごく一部で流行ったことがありますが、男性の性欲を受け入れることが女性における「正の性欲」であり、それを拒絶する「負の性欲」をフェミニズムが助長しているのだ、という考えが女性に対する被害者意識を加速させていると考えられます。
また「イキるくせに行動が伴わない男たち」(清田、前掲p.114)における「「あのやり方じゃ全然ダメ」と批判する」という項目は、「正しいリベラル」「正しいフェミニズム」という架空の立場に立って左派やフェミニズムを批判する論客や文化に重なります。そして「男同士になるとキャラが変わる男たち」(清田、前掲p.123)において採り上げられている「集団になると女性蔑視になる」というのも現在の言論文化にも当てはめることができそうです。ただ、「集団になると女性蔑視的なことを言うこと」について、清田は一つのラディカルな解決策として《男同士でしゃべっているときの様子をスマホやICレコーダーで録音し、一人のときに改めて聞いてみる》(清田、前掲p.128)ことを挙げていますが、これは言論文化においては極めて難しいことです。
それではどうすればいいのかというと、太田啓子『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店、2020年)の最後のほうで述べられている、「対等な関係性を築けるようになってほしい」(太田啓子『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店、2020年)p.254)がそのヒントになるかと思います。それを引用して本稿の締めとしましょう。
私が求めていることは、要約すれば、決して特別なことではないと思います。
女性を人間として、ふつうに尊重すること。
「男らしさ」を競うことをやめ、「男らしくない」人をバカにしないこと。
自分の孤独や不安を、勝手に自分より「下」と決めつけた他人を貶めることで紛らそうとしないこと。(太田、前掲p.255)