
写真:松尾/アフロスポーツ
連載「議会は踊る」
コロナ禍に、オリンピアン・アスリートは無力であった。この事実は、誰がメダルを取ろうと、どのようなドラマが生まれようと、長く記憶される事実になるだろう。それを象徴する発言がある。
体操・内村航平選手の「ああやって言ったこと(※「どうやったらできるかを考えて欲しい」という過去の自身の発言のこと)で開催してもらえたとは僕は思っていない。選手が何を言おうか世界は変わらない。選手はそれぞれができることを一人ひとりがやり、感動を届けることしかできないのかなと思いますね」(東京スポーツ2021年07月06日)だ。
この発言は大きな波紋を呼んだ。しかし、よく考えてみれば、スポーツ選手がスポーツをやることしか出来ないのは当然のことである。
例えば、スーパーの店員が「私は商品を売ることしか出来ない」と言っても、問題にはならないだろう。
にもかかわらず「自分たちは何も変えられない」という発言に、なぜ苛立つ人がいるのだろうか。
逆説的にいえば、多くの人がスポーツ選手に対して「何かを変えることが出来る」と信じているからではないか。
スポーツ選手は政治家ではない。法律を作ることは出来ない。
しかし、スポーツ選手は「スポーツをする」以上のことを求められてきた。
スポーツには特別な力がある。我々はそう考えてきたのだ。
事実、スポーツは様々な形で人を勇気づけ、元気づけてきた。
例えば、阪神淡路大震災での、オリックス・ブルーウェーブの「がんばろう神戸」というスローガン、そして優勝は多くの被災者の記憶に残っている。
ロンドン、北京、アテネ。あるいは冬期のソチ、バンクーバー、トリノ。
オリンピックで見せたアスリートのプレーは日本中を歓喜させた。
今も、MLBロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手や、テニスの大坂なおみ選手、NBAウィザーズの八村塁選手など、世界で活躍する日本人選手の姿を見て、興奮し、また感動する人も少なくないだろう。
しかし、それらの「感動」は常に「プレーすること」の延長線上にあった。プレーし、良いパフォーマンスを見せ、金メダルを取る、あるいは勝利することが、「感動」を産んだ。
今回の感染症においては、そうではない。
プレーをすることがそもそも正しいのか、スポーツイベントを開催することが正しいのか、ということが問われる中で、アスリートは、プレーの延長線上にないものを求められた。八百屋に魚を売るように頼むようなものだ。
だから、内村選手の「できることをやるしかない」という言葉は、本音なのだろう。
結局のところ我々が感動するかどうかは、その感動の対象にどれだけ自分を重ね合わせられるかで決まる。
巨人が阪神相手にサヨナラホームランを打てば、巨人ファンは喜ぶだろうが阪神ファンは悔しい。
これまで、オリンピックというのは日本人(あるいは日本に住む市民)にとって、自分を重ね合わせられる対象だった。
国を背負うイベントであるからこそ、全国津々浦々誰であれ、自分の代理者として自己を投影することができたのだ。
ところが今回、オリンピックを巡って大きな分断が起きた。国民の全員がオリンピックを応援できるという状況ではなくなった。
「感動を届ける」というセリフが虚しく聞こえる状況を、政治が作ってしまったと言える。
オリンピックが無観客かどうかなのかが二転三転し、都議選の争点となり、酒が飲めるかも二転三転し、この状況で「感動を届ける」のは無理だろう。
2021年、オリンピアンは無力だったかもしれない。しかしそれは、決してオリンピアンの責任ではない。