【シリーズ黒人史11】Black Lives Matterへと続くアメリカ黒人の歴史~ジュリアーニNY市長

文=堂本かおる
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荒廃を極めた1980年代

 ルドルフ(ルディ)・ジュリアーニは1944年に、当時はイタリア系の街であったニューヨーク市ブルックリンのイースト・フラットブッシュに生まれている。母方、父方、共に祖父母の代でイタリアから移民してきた家系だった。

 労働者階級の家庭だったがジュリアーニは大学に進んで政治学を専攻、続いて法科に進み、優秀な成績で卒業。当時は民主党員だったが後に共和党に鞍替えし、共和党政権下の法曹界で出世を重ねていく。

 1981年にレーガン政権の司法省においてナンバー3のポジションである司法次官に抜擢され、2年後にニューヨーク州南部地区連邦判事となる。1993年にニューヨーク市長選に立候補するも、この時は落選。4年後に再び立候補して当選し、24年振りの共和党市長となる。1997年には再選を果たし、ジュリアーニは1994年から2001年までの2期8年を務めた。

 ジュリアーニが当選した時期のニューヨーク市は荒廃を極めており、ジュリアーニは市のクリーンアップをブルドーザーのごとき勢いで進めた。

 1980年代のニューヨーク市の治安は同市の歴史上、最悪と言えた。中毒性の強い麻薬クラックが蔓延し、人種間の緊張も極限に達しようとしていた。この時期、白人地区に立ち寄った黒人男性が白人の集団に襲われて殺害される事件が少なくとも3件起こっている。

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 1984年には地下鉄で4人の黒人ティーンエイジャー(18~19歳)に「5ドルよこせ」と絡まれた白人男性が4人を問答無用で撃つ事件も起きた。動機は犯罪多発に対する「自己防衛」だった。4人全員が負傷し、半身不随となった者もあったが、犯人への同情と支援の声が集まった。

 1989年にはセントラルパークでジョギング中の白人女性がレイプの挙句に瀕死の重傷を負わされる事件が起きた。無実の5人の黒人/ラティーノの少年(14~16歳)が誤認逮捕されて長期刑を受け、これも全市を揺るがす大事件となった。本件は後に「ボクらを見る目」として映画化されている。

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 1991年には黒人とユダヤ系の居住区が隣り合わせるブルックリンのクラウンハイツ地区で暴動が起きた。ユダヤ系の青年が黒人の男児2人を車で轢き、1人が死亡、他者が負傷。これがきっかけとなって以前よりの摩擦に火が付き、2日間にわたる暴動となった。

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 暴動が起きた時期の市長はニューヨーク史上初のマイノリティ市長、アフリカン・アメリカンのデイヴィッド・ディンキンズだったが、この暴動にまつわる騒動を上手く抑え切れなかった。それも手伝い、次の市長選では再選を望んだディンキンズを破ってジュリアーニが第107代ニューヨーク市長に選ばれたのだった。

「割れ窓理論」と「ストップ&フリスク」

 1994年にニューヨーク市長に就任したジュリアーニが手掛けたのは、当時はポルノ街とも言えたタイムズスクエアをファミリー向けの観光地とすることだった。そもそも法律家であったこともあり、ジュリアーニは強行に法を変えて風俗店を一掃し、ディズニーを筆頭に劇場を誘致して現在のタイムズスクエアを作り上げた。

 同時に犯罪を撲滅するために「ストップ&フリスク」を行なった。警官が怪しいと思える通行人を呼び止め(ストップ)、所持品検査(フリスク)することを指す。対象者のポケットから銃やドラッグなど違法な物を見つけて押収することで、大きな犯罪を未然に防ぐのが目的だった。これは「割れ窓理論」と呼ばれている。全てが整然と手入れされている地区では犯罪は起こしにくいが、建物の窓が割れたままになっているなど荒廃した地区には犯罪を犯しても咎められないという気配が漂っており、それが犯罪を増やすという理論だ。

 だが、ストップ&フリスクの対象となったのは圧倒的に黒人男性(未成年を含む)、次いでラティーノの男性だった。彼らは自宅を出て職場や学校に向かう際に、もしくは近所の店にジュースやタバコを買いに出た際にさえ、公道で公衆の面前で壁に向かって立たされ、身体検査をされ、何も出てこなければ放免、ただし警官からの謝罪は無し、を何度も繰り返し体験した。

 ジュリアーニの任期後期に行われたストップ&フリスクのデータが残されている。1998年1月~1999年3月の15カ月間に、市内全域で17万回以上のストップ&フリスクが行われている。以下は人種別の比率だ。

人種(当時のNY市の人種別人口比率):ストップ&フリスクの比率

・黒人(26%):51%
・ラティーノ(24%):33%
・白人(43%):13%
・その他(7%):4%

 実数に置き換えると、当時の黒人人口は約190万人。黒人へのストップ&フリスクは8.8万回。白人の人口は約320万人。白人へのストップ&フリスクは2.3万回。

  当時から現在に至るまで、ジュリアーニの強引さが批判されながらも、その手腕によってニューヨーク市の犯罪は激減したとされている。実際にはジュリアーニ就任の4年前、1990年に殺人事件の犠牲者数年間2,245人とピークを迎え、以後年々減り続けていた。ただしジュリアーニの就任期間中にさらに大きく減ったことは事実で、任期最終年の2001年には649人となっている。

 なお、ジュリアーニの任期終了後はマイケル・ブルームバーグ(ブルームバーグL.P.創設者/CEO)が市長となり、3期12年勤めた。ジュリアーニとマイノリティの衝突を目の当たりにしていたブルームバーグは、当選直後からマイノリティとの融和を図った。しかし、ストップ&フリスクについては密かに強化させ、2011年にはジュリアーニ時代をはるかに上回る年間69万回となっていた。

 ブルームバーグの任期最終年の2013年には、マイノリティへの過剰なストップ&フリスクの不当性を訴える集団訴訟が起こされた。ストップ&フリスク対象者の85%が黒人とラティーノであり、全体の9割近くが犯罪の証拠もなく行われていたことから、人種偏見に基づく「レイシャル・プロファイリング」であり、憲法違反であると裁定された。

 過剰なストップ&フリスクはされる側の自尊心を大きく傷付け、精神を蝕む。なんの過ちも犯さず、ごく当たり前の日常生活を送っているはずが、人種を理由に警官から不審者と見做される。外観が理由だけに避ける手立てはない。幾度も幾度も繰り返されるうちに忍耐の限度を超え、警官への口ごたえ、身体的な抵抗をすれば逮捕、最悪のケースでは射殺や絞殺もあり得る。

 ジュリアーニ時代のはるか後、ブルームバーグの任期も終わっていた2014年だが、路上で警官に咎められた黒人男性エリック・ガーナーは「うんざりだ I’m tired.」と抵抗した。そこから警官に首を絞められ、ジョージ・フロイドと全く同じ言葉「I can’t breathe.(息が出来ない)」を繰り返しながら亡くなった。当時すでに43歳だったガーナーが、生涯にわたって警官からのストップ&フリスクを受け続けていたことは想像に難くない。

 黒人の子を持つ親が、今も「警察に止められたら絶対に逆らわずに質問に答えなさい」と教えなければならない理由だ。

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