
写真:PA Images/アフロ
連載「議会は踊る」
私は東京オリンピックの開会式が始まる直前にこの原稿を書いている。
オリンピックを巡っては、楽曲を担当した小山田圭吾氏、演出を務めた小林賢太郎氏の両名が、開会式直前に解任・辞任するという、前代未聞の事態が起きている。
小山田氏に関しては「いじめ」と報道されているが、いじめと呼ぶのは不適切であるレベルの暴行・虐待の事実が明るみに出ているし、小林氏に関しては、過去のコントで「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」などとしたセリフがあったことが、反ユダヤ的言動を監視するNGOであるサイモン・ヴィーゼンタール・センターから批判されている。
私はお笑いにそこまで詳しいわけではないのだが、小林賢太郎氏がメンバーのひとりであったラーメンズといえば、かつて「知る人ぞ知る」お笑いコンビとして有名だった。
同級生がよくDVDを持って「分かる人にはわかる」とラーメンズの素晴らしさについて熱弁していたものだ。
障害者を虐待していた人間がオリンピック・パラリンピックの場で重要な役職を務めることも、ホロコーストを茶化した人間がオリンピック・パラリンピックの場で重要な役職を務めることも、本来ありえない話である。
小山田氏については「過去のこと」とする擁護の声もあるし、小林氏についても、「コントの一部だ」とする擁護の声もある。
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の武藤敏郎事務総長は、会見の場でこのように述べている。
「我々が調査するというのは、なかなか簡単ではありません、正直なところ。昔の行動まで調査するのは実際問題として困難であることは、ご理解いただきたいと思います」(2021年7月22日 日刊スポーツ)
小山田氏に関しては、この言い訳はありえないだろう。少し検索すれば見つかった話である。小林氏に関しては、少し異なる。テレビで放映されていた1コントの1つのセリフであり、それまで問題とされてこなかったから、事務局が発見することは、時間的に困難であったことは事実だろう。
私が問題だと思っているのは、これまで問題とされてこなかったことだ。そこにこそ、日本社会の本質的な問題点がある。
お笑いのようなサブカルチャーは、日本の中では一種の治外法権的に、自由な言動が許されている。
例えば、先日ダウンタウンが出演する番組で、浜田雅功さんが女性芸能人を相手に「殺すぞ」と凄んでいた。
お笑い芸人以外の人間がこれを言ったら、その人がテレビに出ることは二度とないだろうが、お笑いの世界では、未だに暴力や差別、侮辱が蔓延し、許されている。
しかし「お笑いにはお笑いのコードがあり、当事者同士は合意している。だから、侮辱的なことや暴力は、そこでは問題にならないのだ」という前提があるから、それを指摘することは「野暮」と思われる。
私は「不謹慎な笑い」を否定するものではないし、お笑いのコードを否定するものでもない。人を殴って笑いになるとしても、内輪の小劇場などで、それを前提とした観客の前で行われるなら、問題にはならないだろう。
また、過去に不謹慎なことを行ってきた人間であっても、しっかり謝罪すればチャンスはあって然るべきである。
だから、小林氏を個人的に批判するつもりは起きない。
しかし、内輪の世界の人間を、何のスクリーニングもせず、いきなりオリンピックのような世界中を巻き込んで行われる一大イベントの責任者に任命するのは、明らかに人選ミスである。
グローバルに、かつマスに対して発信するものは、それなりにコストを掛け様々な形でスクリーニングされ、揉まれている。
ハリウッド映画がグローバル戦略のもとでアジア人や女性を起用するようになったのもそうだ。日本でも、ポケモンやマリオなど世界で親しまれるコンテンツは、それなりにコストをかけ、「問題がない」ようにしている。
問題は、そのようにグローバルな場で戦ってきたコンテンツクリエイターが、日本の威信をかけた一大イベントにおいて人選されなかったことだ。
そして、「巨大な内輪」の中で、ぬるま湯のような中で戦ってきた日本のコンテンツやクリエイティブが、世界のスタートラインにすら立っていなかったという現実である。
この敗北から学ぶことがあるとすれば、日本の人権意識を引き上げ、コンテンツのスクリーニングを行い、そして新しく、新鮮な感覚を持ち、グローバルでも戦える世代に、日本の未来を託すしかない、ということではないだろうか。

『25歳からの国会: 武器としての議会政治入門』(現代書館)