5月15日、川崎市アートセンターで「日本映画大学学生企画上映会 手紙と映画~拝啓、スクリーンの前のあなたへ」が開催され、『自由が丘で』(2014年 ホン・サンス監督 韓国)上映後のトークに『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』(駒草出版)の著者、西森路代さん、ハン・トンヒョンさんが登壇しました。本の中では詳しく触れていなかったホン・サンス監督の作品について、ありきたりなイメージにとらわれず、それぞれの感覚で捉えた読みや解釈を語り合っています。読む方によっては、ホン・サンス作品に対するイメージが変わったり、新たな気づきがありそうな内容です。
(※本稿の初出は「日本映画大学 学生企画上映会 「手紙と映画」 トーク」(駒草出版note)です。転載にあたり一部修正を加えています)

西森路代
1972年、愛媛県生まれのライター。大学卒業後は地元テレビ局に勤め、30 歳で上京。東京では派遣社員や編集プロダクション勤務、ラジオディレクターなどを経てフリーランスに。香港、台湾、韓国、日本のエンターテインメントについて執筆している。数々のドラマ評などを執筆していた実績から、2016 年から4 年間、ギャラクシー賞の委員を務めた。著書に『K-POP がアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK 出版)など。Twitter:@mijiyooon

ハン・トンヒョン
1968年、東京生まれ。日本映画大学准教授(社会学)。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした日本の多文化状況。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著,勁草書房,2017)、『平成史【完全版】』(共著,河出書房新社,2019)など。Twitter:@h_hyonee
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ホン・サンス監督の2014年作『自由が丘で』を観て
ハン 私と西森さんは、映画については気楽な感じでいつも話していて、最近は本まで出してしまったんですけど。で、実はこの本の中ではホン・サンスって扱われていないんです。
西森 そうですよね。
ハン なんでかな……? たまたまそういう企画がなかったからか。私はホン・サンスのことは別の方とは何度かトークしたこともあるのですけど……。
この本の中では、私がシネフィルや映画の専門家というわけではないということもあって、割とシンプルな社会反映論というか、世の中の変化とか韓国や日本の変化と映画を結び付けて話している感じで。そういう意味ではホン・サンスって、社会を反映した作品を撮る監督ではないとよく言われているのですが、まあそういう部分はあるのかな、と一応は思っていて。
西森 私も、昔は「そうじゃない」ほうの監督だと思ってたんですけど、最近の作品を見て少し振り返ってみると、「そうじゃない」ほうの監督ではないかもしれないと思うようになってきましたね。今日お話しする『自由が丘で』(2014年 ホン・サンス監督 韓国)についても、映画の中では、「JIYUGAOKA8丁目」っていうお店が出てくるだけなのに、『自由が丘で』ってタイトルにしたのはなんでだろうな、って考えたり。そういうタイトルに、意味がないようであるんだろうなって感じてきました。韓国の人は、日本の「新宿」や「渋谷」じゃなくて、「代官山」や「自由が丘」みたいな部分が気になってるんだなって。町の性質として。
あと、この映画って、時系列がバラバラになる話なので、どこを最後の時系列だと解釈するかによって、ハッピーなものになったり、悲しいものになったりするなと思って。最初観た時は、ハッピーエンドだと思ってたんです。
ハン 最初観た時って、2014年?
西森 はい。その時はそんなに悲しいって思ってなかったんですけど。
ハン えっ、私悲しいって全然思ってなかったから気になる。どこが悲しい?
西森 それには、今年公開の『逃げた女』(2020年 ホン・サンス監督 韓国)を見たこととか、『夜の浜辺でひとり』(2017年 ホン・サンス監督 韓国)を観たことが関係していて。
ハン 『夜の浜辺でひとり』は、2017年の作品ですね。
西森 『自由が丘で』を2014年に見たときは、当時のホン・サンスの映画と同様で、登場人物がああでもない、こうでもないと与太話をしてるっていう空気感の映画だと思ってたんです。でも、その後のホン・サンスって、だんだんと、ちょっと重めの愛の話とかになってくるじゃないですか。それが孤独の話とかになっていくんですよね。
ハン ああ。
西森 それを経て、『自由が丘で』をまた観てみたら、結構そっち寄り、愛や孤独の話に見ちゃったっていう感じがあって。
ハン たとえばどういう?
西森 『夜の浜辺でひとり』って本当に孤独の話だと思うんですけど。キム・ミニ演じる主人公が夢が覚めた時にひとりを実感してしまう感じがあって。夢から覚めた後の悲しさがすごいんですよ。
ハン だとしたら、その視点で『自由が丘で』を観ると、この映画は、今日の「手紙と映画」ってテーマにも関わってくるけど、手紙の再現だったわけですよね、あれって。加瀬亮演じるモリからの手紙を恋人のクォンが読んでいるときに落としてバラバラになってしまって、そのバラバラになってしまった時系列に沿って再現されている設定になっているのですが、どこかで手紙が終わっているんだけど、どこが終わりかわからないってことで、もしかするとそこが悲しく感じられたってことかな? 最後、クォンと再会できてさ、でもあれは私、現実かどうかもわからないと思っていて。
西森 そうなんですよ。そこも含めて、どこが現実で、どこが現実じゃないかどうかもわからないふわふわした感覚があると思ってて。しかもなぜ私が『自由が丘』を見たときに、夢から覚めた後のことを重ねてしまったかっていうと、『夜の浜辺でひとり』の最後のシーンは、キム・ミニ演じる主人公が夢から覚めたところで終わるんですけど、『自由が丘で』も同じで、最後のシーンで加瀬亮は寝てて、目覚めたところで終わるんですよ。って考えると、『自由が丘で』での時系列はバラバラなので、そのひとつ前のシーンはハッピーなエンディングのように見えて、実は夢であるとも思えてくるわけなんです。
ハン 手紙の中が夢だってことですよね。
西森 そうです。手紙の中の一部分が夢のようにも見えるという。『夜の浜辺でひとり』を見たあとに、そういう風に考えてみてしまった、っていうことです。で、クォンは手紙落としたときに、一枚は拾えてないんですよね。それとかもすごく気になりました。
ハン うんうん、なるほどね。だから、ピースを埋め合わせるのが、埋め合わせになってなくてむしろ欠落っていうか。手紙に書いていたことも本当かどうかわからないわけで。もちろん映画そのものがフィクションなんですけど、もうちょっと、本当でないかもしれないという二重性みたいな話ですよね、たぶん今の話って。