性暴力への「復讐劇」を華麗に転じる傑作!『プロミシング・ヤング・ウーマン』

文=鈴木みのり
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(C)2019 PROMISING WOMAN, LLC / FOCUS FEATURES, LLC

 『プロミシング・ヤング・ウーマン』は複雑にジャンル横断しながら同時にポップという、間口の広さを持つ極めて斬新な映画だ。性暴力被害を防ぐレイプ・リベンジのスリラーに見えるブラックコメディから、ラブロマンスところころ姿を変え、さらに苛烈な現実を突きつける。セリフではほとんど説明せず、物語はシンプル。巧みなのは脚本だ。アカデミー賞脚本賞の受賞にもうなずける。

 冒頭、夜の(踊るほうの)クラブで泥酔している主人公のキャシーに談笑しているスーツ姿の男三人組のひとりが声をかけ、自宅に連れ帰って同意なく性行為を行おうとする(明らかな性暴力だ)が、キャシーは実際は酔ってないと明かして、問う。「何やってんだよって聞いてるんだよ」と凄んで。

 キャシーはもうすぐ30歳、両親と暮らし、昼間はコーヒーショップで働く。

 そんなキャシーを次に自宅に連れ込むのは、コカインを吸わせて手を出そうとする小説家志望の男。キャシーはひと通り男の振る舞いを確認すると、また正気になって問い、毎週クラブに出かけて酩酊したふりをしていると「ナイスガイ」が大丈夫か声をかけてくるのだ、と語る。

 だますことで単に性暴力を諌めようとしているだけかもしれないし、直接的な描写はないが、キャシーからは暴力の匂いがする。冒頭の男の部屋のシーン後、タイトルが挿入され、帰り道を裸足で歩くキャシーの前脛に赤いものが付着している。ヒールは脱いで片手に持ち、足の裏は真っ黒。カメラが徐々に上がっていくと、ホットドッグを持っているもう片方の腕から赤いスジが垂れているし、白いシャツにも赤いシミがある。おそらくケチャップだろうが血に見えてしまう。その後、通りかかった廃棄物処理現場らしき場所で、道路の逆側から業者の男三人にからかわれるシーンでも、黙って男たちを見るキャシーの後ろでは重機が音を立てて揺れ、威嚇しているようだ。「何やってんだよって聞いてるんだよ」と凄むカットもだが、キャシーは男たちを見つめる。この映画が扱うテーマは他人事ではないのだと、スクリーンのこちら側の観客にも問いかけるように。

 夜な夜な「狩る」男たちに対して、直接的な暴力を振るうこともあるかもしれないと推測させるのは、キャシーの手帳につけられた「狩った」男たちの印ーー4までは縦棒、5人目はそれらを斜めに引くーーの中に、赤い線が混じっているからでもある。

 キャシーがそのような日常に送るようになったのは、共に進学した大学の医学部で受けたレイプ被害後、親友のニーナが(おそらくみずから)死んでしまったため。映画は、元同級生で現在医師のライアンとの再会をきっかけに、ニーナの被害訴えを信じなかった医学部の同級生マディソンやウォーカー学部長、事件を法的にもみ消したグリーン弁護士、そしてレイプ加害者アル・モンロー、4人の復讐相手をめぐっていく。

見事に織り込まれた演出の数々

 脚本の隙間を縫っていく演出の力にも唸らされる。監督のエメラルド・フェネルは衣装、音楽、美術などを通して、リアリズムではなくある種の寓話としての大衆映画に仕上げていく。ジャンル映画への愛が感じられるそのたくらみは、現在も起き続ける性暴力加害の深刻さや、それらが起きる性差別が蔓延する社会の、異性愛規範に基づく(白人・シスジェンダーの)男性中心主義という不均衡への問題意識を、ひとりでも多くへの観客に届けるための工夫だろう。その切実な要請があるからこそ、要所要所でキャシーのエモーショナルな内面が発露するとき、「この映画を撮らなければいけない」という切実さを感じ、胸を打たれる。個人的には、ウォーカー学長面談の後のシーン(この箇所含め、キャシーの上部に「赤」が置かれる反復も、目をひく)と、クライマックスに向かうくだりには涙した。

 コーヒーショップ勤めの「昼間の」キャシーが纏うパステルカラー中心のカジュアルなファッションは、「キネマ旬報」7月下旬号児玉美月氏が〈纏う幼さが成熟の過程を永遠に喪失してしまった彼女の人生を暗に物語ってもいる〉と指摘するように、「事件以降のトラウマで時間が停止したキャシー」を示唆しているし、淡い色味は、原色やネオンカラーなどの強さと比較して、異性愛の文脈において多くの男性には柔らかく無害に映るだろう。

 予告編でも使われる、ブリトニー・スピアーズの2004年の大ヒット曲『Toxic』の印象的なストリングスの旋律は、これ自体80年代のインド映画『Ek Duuje Ke Liye』で使われた“Tere Mere Beech Mein”からの引用で、ジェームズ・ボンド映画のパロディのような俗っぽさに仕上げていたが、この映画では、歌メロ共々さらに仕立て直されている。警戒すべき相手に溺れてしまう恋愛の中毒性を歌った原曲から歌詞を剥ぎ取り、ジェンダーの権力構造において「危険」な状況に女性たちを追い込んでいく側が負うべき責任を問うべく、キャシーがクライマックスへと歩みを進める際のスリリングなサウンドトラックへと意味を転じていく(このときのキャシーの足の裏も真っ黒だ)。

 また、ブリトニーが2000年代スターとして注目されこともあって精神的な不調に苦しんだのと同時代に、リアリティ番組で有名になったパリス・ヒルトンの楽曲『Stars Are Blind』は、セリフでもわざわざ言及されているから注目せずにはいられない。本作を彩るポップソングの中でも、29歳から30歳になるキャシーとその同世代の登場人物たちが10代のころ親しんだだろう、つまり心理的に影響を与えているという示唆で浮ついた気分の反映ではないかとわたしは考えたが、友人の映画監督・谷口恒平氏から、当時流出したパリスのセックステープがほのめかされているのかもしれないという考察を聞き、とても鋭い指摘だと思った。

「お利口さ」に収まらない、新たな挑戦

 残虐なシーンに対する好奇心から、フィクションとはいえわたしたち観客は「どう描くのだろうか」と期待してしまうが、直接的な暴力の描写はトラウマの喚起となりかねない。だから本作は基本的には描かない。そうした注意深いフェネルの演出に対して、「臆している」とか「表現の自由が」と思う人もいるかもしれないけれど、まずは現実を生きる人間の尊厳こそ尊重されるべきであって、表現によって誰かが傷つくだけに終わる懸念があれば取り除かれて然りだし……と書いたものの、そんな「つまらない」と思われかねないガイドラインなどものともせず、フェネルはむしろ新しい表現の可能性を見出し、切り開いている。

 キャスティングは、単にできあがったキャラに適当な役者を配しただけでなく、その役者の顔立ち、身長など見た目、ジェンダーや人種、作中では説明されない役者個人のプライベートな情報などもふまえて、観客のリテラシーに応じて読み取り方に幅と深みをもたらす。

 キャシーが「狩る」男たち(本稿では割愛するが彼らの部屋の美術品やインテリアにも注目してみてほしい)の配役については、パンフレットの山崎まどか氏のコラムに詳しいが、わたしが関心を寄せたのはキャシー役のキャリー・マリガンと、キャシーが勤めるコーヒーショップのマネージャー・ゲイル役のラヴァーン・コックスだ。

 童顔で背もそれほど高くはないマリガンを通したキャシーは、(特にマリガンのような金髪の)白人女性に伝統的に付されてきた、客体化される「性的欲求のない無垢な聖女」像としてかたどられている。何度か反復されるーー時にパステルカラーのポップなかたちをしたーー宗教画の図像のようなキャシーのカットは、人種主義と紐づいたジェンダー役割規範が想定されてのことだろう(宗教画に見える絵作りについては、パンフレットで宇野維正氏が詳しく言及している)。

 人種主義への問題意識は、黒人女性であるラヴァーン ・コックスの配役にもあらわれているだろう。すでにコックスの存在を知っている人ならば、マイノリティである彼女が物語においてどういう役割を引き受けているのか深掘りして考えてみてほしいし、コックスのキャリアを知らない人にはぜひNetflixのドラマシリーズ『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』で彼女が切り開いたキャラクターと(これまでも存在していたが聞かれることのなかったからこその)新しい物語の可能性にふれたうえで、再度本作を観てほしい。

 コックス自身がこれまでハリウッドで、自分と同じ・似たような「黒人」「女性」などの複合的な被差別属性の人々の就労環境の改善のために闘ってきた現実のキャリアを考慮すると、このゲイルという役柄の慈しみや、ほとんど説明なく「ただそこにいる」ことの価値ははかりしれない。

 キャシーとゲイルをめぐるキャスティングやキャラ造形と、映画のさまざまなたくらみには、ポリティカル・コレクトネス:政治的に妥当な配慮に対して向けられがちな、「お利口さ」の遥か向こうを行くクリエーションの刺激と新たな挑戦に満ち満ちている。

キャシーが見つめているのはわたしたちだ

 この物語を通してふれられる、女性が置かれてきたジェンダーや人種主義に基づく不均衡に関連した諸問題を、映画の中で、どの立場の誰が引き受けていくか?  衝撃的なエンディングでインターセクショナリティの視点―ー女性(や男性)の中にも、白人と有色人種がいて、有色人種の中でもアフリカ系、アジア系と多岐にわたって差があり(誰がモンローを「捕らえるか」にも注目してほしい)、さらにシスジェンダーとトランスジェンダーといったジェンダーのありようも複数が存在し、貧困層と富裕層でも立場は違うだろうーーを言外に示唆しながら、「同じ、女性の問題・経験」だとこの映画ははっきりと示している。前述の児玉美月氏の評の言葉を借りるなら、〈#MeToo時代には女性間における生きられる経験の差異を取りこぼさないシスターフッドが要請されている〉。

 ジェンダーというと、単に異性愛主義のシスジェンダーを前提とする「男/女」のみを想定した不均衡や不正義についてだと理解されやすいが、その諸問題には人種、経済性、出身階層、生育地域・国、就学や就労機会なども関わる。これらの複数が重なる地点にいる、微妙な差を持つ異なる人々が、同じ差別的な構造の障壁に阻まれている。多様な民族的背景、多様なジェンダーやセクシュアリティのありようをキャラクターと物語に落とし込んだ、先ほどふれた『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』以降の映画だと本作を位置づけられると言えるだろう。

 昨年アメリカでは、過去を上回る44人ものトランスジェンダーの、特にトランス女性でブラックやラテン系の人々が殺された。さらに、その多くがセックスワーク従事者であり、性差別や性暴力に苦しめられていて、その現実は、非トランスの女性たちの置かれている困難とも地続きだ。

 エメラルド・フェネルや本作の製作者は、そのような現実にまで目配せをし、同じ問題に苦しめられる多様な女性たち、多様な人々へと開かれている物語を紡ごうとしているのだと確信している。そのバトンは、スクリーンのこちら側の実世界に生きる、わたしにも、あなたにも手渡される。キャシーがカメラに向かって目を向けるのは、きっとそういうことだ。

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