第二次世界大戦中の1943年7月8日、ブラジル・サントスに住む日系・ドイツ系移民人に対して、24時間以内にサントスから強制退去するよう命令が出された。当時ブラジルに約20万人いたとされる日系人のコミュニティはこの時代にバラバラになった。
この「サントス強制退去事件」は公的にほとんど記録されておらず、証拠となる写真も2枚しか残っていない。さらに当時の日系社会に大きな影響を与えたはずの事件でありながら、この事件は長らくブラジル日系移民の間でもほとんど知られていなかった。ブラジル政府からの謝罪や補償も未だにない。
映画『オキナワ サントス』は、この「サントス強制退去事件」の全容を、松林要樹監督が当時の体験者や関係者へのインタビューから明らかにしていくドキュメンタリーだ。

松林要樹(まつばやし・ようじゅ)
ドキュメンタリー映画監督。1979年福岡県生まれ。戦後もタイ・ビルマ国境付近に留まった未帰還兵を追った『花と兵隊』(劇場公開第一作・2009年)で、第1回田原総一朗ノンフィクション賞〈奨励賞〉など受賞。地震と津波と放射能汚染の被害を受けた福島県南相馬市を取材した『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』を2012年に、津波から奇跡的に生還したある馬の数奇な運命を描いた『祭の馬』を2013年に劇場公開。『祭の馬』は2013年ドバイ国際映画祭〈ドキュメンタリー・コンペティション部門 最優秀作品賞〉を受賞など多くの国際映画祭で上映される。著書に『ぼくと「未帰還兵」との2年8ヶ月』(同時代社)、『馬喰』(河出書房新社)など。
「知られていない」ことすら知られていなかった事件
松林監督が『オキナワ サントス』を撮ることになったきっかけは、2016年、文化庁の新進芸術家の海外研修制度でブラジルのサンパウロに滞在していた折に、ブラジルで発行されている『ニッケイ新聞』編集長の深沢正雪氏から、サントス強制退去事件について聞かされたことだ。
「この事件について調べたり記録を残すことを誰もやっていないなら、自分がやるしかないって思いました。1988年に撮影された映像以外の証言が残っていなかったので、映像に残す意味があるのかなと取材を始めました」

(C)玄要社
そもそも、取材を始めた監督自身も、この事件がブラジル日系移民社会の中でどれほどのインパクトを持つものなのかもわからなかったそうだ。
「この事件が本当に知られてないのかすらわからなくて。でも、実際に資料を見ても、公の記録の中にも2、3行程度の記述しか見当たらなかったから、ほんとうに知られてない事件なんだということが、調べるうちにどんどんわかってきました」
まずは事実を
松林監督は事件を知って最初どのように感じたのだろうか。
「びっくりしたとか許せないというのはなくて。どういう背景のもとで何があったのかが正確にわかってないから、まず聞き取りを始めていきました」
「まずは事実を正確に」知ることから撮影は始まった。手がかりは深沢氏から紹介された体験者と、サントス日本人会に残っていた強制退去させられた人の名簿だった。松林監督は、細い糸を辿るように、体験者への聞き取りと調査を進めていくうち、あることに気づいた。サントスから強制退去させられた家族のうち6割が沖縄県出身者だったのだ。名簿を持って沖縄出身者で作るブラジル沖縄県人会を訪ねたことで、調査は大きく前進することになる。
「映画の中で、私が資料を持って沖縄県人会に行ったじゃないですか。彼らのコミュニティは沖縄県人会何々支部というのがサンパウロ中にあって、毛細血管みたいに誰がどこにいるって把握している。そういう伝手を辿って、名簿のあの人はどこにいるのかを調べていったら、事件の体験者が見つかったってことですね」
松林監督は、沖縄県人の移民誌を作っているブラジル沖縄県人移民研究塾代表の宮城あきらさんとの共同調査で、次々に沖縄出身者に話を聞いていく。宮城さんは戦後に移民してきた世代の人だ。しかし、どうして体験者でもないのにそこまで協力的なのだろうか。
「沖縄戦を経験しているからこそ残したかったんじゃないですかね」と松林監督は言う。
宮城さんは映画でも話しているように、沖縄戦で集団自決から生き残った。
また、沖縄からの移民が自分たちの経験を残そうとするのは、沖縄の移民がブラジルの日系社会で差別された体験があったからだそうだ。戦前は沖縄からの移民は内地(本州)からの移民とは違うとそれぞれに会館を建て、交流はほとんどなく、内地人と沖縄県人の結婚はいい目で見られなかったそうだ。
「映画の中でもあるように、沖縄からの移民のほうが記憶を記録にする部分は強くあります。沖縄戦やあるいは内地の人間から差別された経験が強くあるからこそ、記録として残しておきたいっていうものがあるんじゃないでしょうか」
さらに松林監督が写すのは移民内部の社会だけではない。
「そもそも移民した沖縄の人も日系人も、現地でジャポネーズって呼ばれるでしょ。でも日本に出稼ぎにくるとブラジル人って呼ばれる」
このように、カメラを引いて視点を変えると、ブラジル社会や日本社会から移民たちに向けられた別のまなざしが見えてくる。
沖縄に向けられた「ほんとうの日本人」ではないという差別、日本人から向けられた海外移民への「ほんとうの日本人」でないという差別、さらにブラジル社会から向けられた日系移民は脅威だという差別。それらが交差する中で「サントス強制退去事件」が起こり、日系コミュニティの中で忘れられていった。1980年代に補償を求め、その体験が日系社会で多く記録され、移民の歴史やアイデンティティとなっているアメリカやカナダとは対照的だ。
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