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●「セカイ」を『資本論』から読み解く(第4回)
幼稚園年長組の私の娘が「SDGs」という言葉を発したので、心底たまげました。「我が娘は早くも新聞を読んでいるのか! 天才なのか!」などと思ったのですが、すぐにわかったことには、いまや幼児向けの雑誌などにも環境問題、SDGsのことが書いてあるんだそうです。
温室効果ガスの削減を筆頭として、環境問題対策は待ったなし。そういう雰囲気が、とりわけアメリカでトランプ政権からバイデン政権へと交代したあたりから、全世界的に共有されてきつつあります。その空気が幼児向け雑誌にまで及んできた、ということなのでしょう。
さて、なぜ環境問題が深刻化したのか?
人間が増えすぎたから、人間が欲張りだから、科学技術が進み過ぎたから、等々と色々な見方がありますが、どれも一理はありそうです。しかし、やはり最も重要な点は資本主義にあります。
というのも、人口が爆発的に増え始めたのは近代の産業資本主義が成立して以降のことです。人間の欲望のタガが外れていったのも資本主義の発展によるものですし、科学技術が飛躍的に発展し続けるようになったのも資本主義の時代以降のことです。ですから、環境問題の根源を問うなら、資本主義の構造的問題を問わないわけにはいかないのです。
いまや環境問題の深刻化は人類の存続に対して暗い影を投げ掛けさえしているのですから、『資本論』にこの方面への示唆が含まれているのか否かは重大な問題です。
もちろん、マルクスが生きた時代は、人間の経済活動が生活環境全般を破滅的に壊してしまうかもしれない、などとは想像しがたい時代でした。だから、『資本論』にエコロジーを求めるのは酷であるように見えるかもしれません。
しかし、環境問題と資本主義の本質的な関係性、そしてこの問題の重要性に鑑みるならば、もし『資本論』にエコロジー問題への示唆がないとすれば、『資本論』に現代的価値はないとすら言わなければならないでしょう。
自然の搾取がもたらすもの
そして、それはちゃんとあるのです。イギリスで工場法(労働者の搾取を規制する法制)が成立した経緯について述べた件で、マルクスは次のように書いています。
この法律[=工場法]は、国家の側から、しかも資本家と大地主との支配する国家の側から、労働日を強制的に制限することによって、労働力を無制限に吸い取ろうとする資本の衝動を、制御する。(中略)工場労働の制限は、グアノ肥料をイギリスの耕地に注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一方のばあいには、土地を疲弊させてしまった同じ盲目的な掠奪欲が、他方のばあいには、国民の生命力の根源を襲っていた。ここでは周期的な疫病が、ドイツおよびフランスにおける兵士の身長低下と同様に、このことを明瞭に証明した。
(『資本論』岩波文庫、第二分冊、106)
「グアノ」とは、海鳥の糞が島や海岸に堆積・凝固したもので、窒素とリン酸を多量に含み、化学肥料が発明される以前の19世紀にはきわめて重要な肥料として活用されました。名産地は南米のペルーやチリで、ヨーロッパ人は自国の耕地に撒くためにはるばる大西洋と赤道を越えて海鳥の糞を自国に運んでいたのです。
そこまでしなければならなかった理由も、ここに簡潔に書いてあります。農業が資本主義的に経営されるようになった結果、持続可能性に配慮しない農業経営が行なわれるようになって、土壌がやせた。それを補うために、グアノの大量投入が必要になったのです。資本に特有の無限の増殖衝動が自然に対する「盲目的な掠奪欲」として現れ、生態系のバランスを破壊するという資本主義と環境問題の本質が、ここで明瞭に語られています。
あるいは、次のような記述もあります。
資本主義的生産は(中略)人間と土地とのあいだの代謝を、すなわち人間が食料および衣料の形態で消費する土地成分の土地への復帰を、したがって永続的土地豊度の永久的自然条件を撹乱する。
(同、533)
マルクスは、資本主義社会を「物質代謝の大半を商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」(白井聡『武器としての「資本論」』)であると定義していました。この定義は厳密なものなので少々難解に感じられるかもしれません。
しかし、要点はそう難しくありません。「物質代謝」とは、生き物としての私たちがその中を生きている自然の過程です。
私たちは生きていくために食ったり飲んだりするわけですが、食べ物や飲み物は元をたどれば自然から取り出されたものですね。近代資本主義の時代になって、私たちはその自然の過程を「商品」を通して生きるようになりました。もっぱら買ってきた食料、買ってきた飲み物ばかりを消費し、また働くときには商品を生産しているのですから。
そのとき何が起るのかを、マルクスはここで指摘しているのです。
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