
写真:長田洋平/アフロスポーツ
連載「議会は踊る」
1968年、一人のメダリストが死んだ。円谷幸吉。1964年東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得したランナーである。
メキシコシティ五輪の開催年、彼は自ら死を選び、その足が前に進むことはなくなった。
「父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました」から始まる遺書は、「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません 何卒お許し下さい」「気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれていた。
2021年の東京オリンピックが終わった直後、メンタリストを名乗る、タレントのDaiGo氏の発言が大きな波紋を広げている。
「生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫はさ生きてれば僕得なんで」
「ホームレスの命はどうでもいい。どちらかと言うと、みんな思わない? どちらかと言うといない方がよくないホームレスって? 言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いこと言いますけど、いない方がよくない?」
このような考え方は、優生思想と呼ばれる。人間を生きる価値のあるものと、ないものにわける。価値のあるものを称揚し、ないものをどこかに追いやる。
優生思想とオリンピックは、決して無縁ではない。ベルリンオリンピックは「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれ、ゲルマン民族の優位性を誇示しようとした。
これは、単なる歴史の話ではない。国家がメダル数を競い合う以上、そこには「役に立つもの」「役に立たないもの」に分けられる。その発想は容易に優生思想につながるのだ。
BBCの報道によれば、オリンピック開催中、東京都心部のホームレスが世間の目に触れないようにと、圧力をかけられていた。
東京新聞の報道には「複数の法務省関係者は『五輪に向け、ものすごく治安を気にしているのは事実』と口をそろえる」とある。
国家の威信をかけたイベントで、崇められ讃えられる人がいる一方で、排除され、いないことにされる。これが優生思想でなくて、なんだろうか。
「国家の誇り」として讃えられるアスリートにもまた、多大な重圧がかかる。円谷幸吉が死を選ぶほど、1964年における東京オリンピックの重圧は凄まじかった。
その根底にあったのは「国のためにメダルを取る」「メダルを取れる選手には価値があり、メダルを取れない選手には価値がない」という考え方ではないだろうか。
2021年、歴史的な出来事があった。アメリカ代表の金メダリストであるシモーネ・バイルズが、メンタルヘルスの問題を告白し、団体総合決勝途中で演技を取りやめた。競技をやめることで、オリンピックの進化を示したのだ。
オリンピックを通じて、歴史を前にすすめる方法があるとすれば、それは優生思想やナショナリズムに縛られたオリンピックに別れを告げ、メダルではない価値を見出すことだ。おそらく、放映権収入は減るだろうが、それはなされなくてはいけないことではないか。