「若さ」を美徳とする価値観はどこから来るのか 『ひとはなぜ服を着るのか』が問いかける画一的な美への疑問

文=エミリー
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 写真家の石内都さんの『1・9・4・7』という、1947年生まれの当時40歳代の女性の身体のパーツばかりを収めた写真集を紹介しながら、著者はこう問いかける。年齢を重ねた人のもつ、深く皺が刻まれた手足や、ひび割れやタコのような硬化、アイロンを当てすぎた服が発する鏝光りのような艶のある皮膚には“時間の苦しみ”や“歴史の悶え”といった、その人にしかない時間や経験の蓄積や痕跡があり、それこそが彼女たち自身なのではないか。そうであるならば、小皺などをメイクで隠して肌を均質にした、“時間を消去された顔と身体”は本当に「美しい」のだろうか、と。

 そこにはまさに、20歳の私が感じた、少し心に痛みや悲しみを伴うような違和感や疑問への答えが書かれていた。それは、歳を重ね、様々な経験や感情や学びを自身の内に積み重ねてゆくことは間違いなく豊かさであるはずなのに、ひとたびそれが顔や身体といった外見のことになると、そこに時間や経験の痕跡が増えていくことを、「劣っていて、醜くて、恥ずかしい」ものとされてしまうという矛盾に対する、強い違和感だったのだ。

 しかしその一方で、確かに「歳を重ねることは豊かだ」と思っているにもかかわらず、外見の「美しさ」について、若さに由来するような特定のイメージをよしとする価値観が社会の中であまりに強固であるために、嫌でもそれを内面化してしまっていること、そこから完全に自由になるのは難しいこともまた、否定できない。

 数年前に、同じく石内都さんの「Innocence」という、女性の身体の傷跡を収めたシリーズの写真を横浜美術館の「石内都 肌理と写真」展で見た時、私は内心とても動揺した。なぜなら、自分の中に「白くなめらかで傷や歪みのない肌や身体が美しい」という価値観が強固に植えつけられているために、そうでない肌や身体を見ることに、無意識に戸惑いや忌避感のようなものを感じてしまっていることに気づいたからだ。

 「よい」という価値観は、“ある時代、ある集団のなかで、みんながそう思っているだけのことが多い(p.155)”と言われてもいるように、何を「よい」とか「美しい」と思うかは、テレビやファッション雑誌やインターネットなど、メディアによって社会の様々な場所でそのイメージが喧伝されていることによる影響が、とても大きいように思う。

 写真や動画の加工技術の発達も相まって、雑誌や映像やSNS上で目にする人の写真や動画は、傷やしみ一つ無い、つるりとした白い肌のイメージで溢れている。確かに、肌荒れやクマのない、なめらかでつややかで血色の良い肌や顔の方が、健やかさがあって見る人が安心したり、好ましく思ったりするのも無理はないのかもしれない。

 けれども、芸能人やインフルエンサーたちがメディア上で見せる顔や肌や身体こそが「美しさ」なのだと日々見せられ刷り込まれ続けていると、誰でも多かれ少なかれ、次第にそうではない自分の顔や肌や身体に落胆したり、拒否感を抱いたりするようになる。それが行き過ぎれば、社会が突きつける「美」の強迫観念に囚われた結果、摂食障害や醜形恐怖症などに行き着くこともあるだろう。

 自分自身がある特定の顔や身体のイメージを「美しい」と思い、そこに近づくことをよしとして個人的な努力をすること自体は悪いことではないし、ファッションや美容がもたらしてくれる、ポジティブな気持ちや力や豊かさは素晴らしいものだ。けれどもその基準や価値観が、外からの強制やジャッジ、強迫観念となって自分や誰かを苦しめているのだとしたら、それは紛れもない暴力であり、一刻も早くそこから脱け出す必要がある。

 多くの場合、「何を美しいと思うか」「何をよいと思うか」といった価値観は無意識のうちに多くの人々に刷り込まれてしまうため、それを疑うことなく当たり前のものとして受け止めてしまいやすい。そして、自明のことだと思っているからこそ、他者にその価値観を押し付けていることの暴力性や、その外側にいくらでも違う価値観や選択肢があることに気づくことのできない人も多いのだろう。

 しかし、多くの人が当たり前だと思っている価値観には、実はその根底にジェンダーや人種などに基づく偏見や差別があることも少なくない。現に、特に女性に関して「若さ」をよしとする価値観は、紛れもなく家父長主義的な社会の価値観(男社会の中でより強い権力をもつ男性が女性の「若さ」や「処女性」などに価値を置いてきたことなど)からきていると考えられるし、「白い肌」や「二重まぶた」を称賛する考え方は、白人至上主義的な価値観を反映したものであるといえる。

 メディアが「美しい」ものとして紹介しているから、みんなが「よい」と思っているからといって、それが絶対的に正しいわけでない。その背後に暴力性や差別性のある価値観や基準には、積極的に声を上げNOを突きつけていく必要があるし、特に多くの人への影響力があるメディアなどは、偏った価値観ばかりを肯定するようなイメージを広めることの暴力性とそうしないように努める責任を、もっと自覚すべきだと切実に思う。

 そして、社会の中の画一的な価値観が変化していくこと、そのために働きかけていくことはもちろんとても重要だが、一朝一夕に実現することを期待するのは難しい。だからそれと並行して、自分以外の誰かが様々な形や方法を通してこれまで表現してきた、既成概念に揺さぶりをかけてくれるような、違和感を抱いていたことについて言語化し肯定してもらえるような価値観の具体例にできるだけ多く触れ、それを自分の中に積み重ねてゆくこともまた、自分や誰かを傷つけうる「美の固定概念」から自由になるためには大切なのではないだろうか。

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