私にはずっと忘れられない、折に触れてふと思い出す、ある記憶がある。それは今から10年近く前、まだ私が20歳だった頃の正月のことだ。毎年の恒例で東京にある母方の祖父母の家に親戚皆で集まっていた時、私よりも5つほど歳上の従兄弟の結婚相手のお姉さんが、何気なく私の手を見て言った。
「○○ちゃんの手は白くて綺麗だね。私の手は家事とか育児で荒れているから、汚くて恥ずかしい」
その時の私は曖昧な笑みを浮かべるだけでうまく言葉を返せなかったのだが、心の中にはもやもやとした違和感が残っていた。毎日家族全員分の家事を一人で切り盛りし、2人の子供を育てている人の手が、どうして恥ずかしいのだろう。むしろ恥ずかしいのは、実家暮らしで大学に通い、家事もろくにしないで自分の好きなことだけして過ごしているがゆえにまっさらな、私の手の方ではないのか、と漠然と思った。
そして、その感情の正体をうまく言語化できないながらも、その違和感はおそらく、「若い方が優れている」という世の中の価値観に対するものであると気づいてもいた。だからその出来事をきっかけに、どうしてこの社会では、とりわけ女性に対しては「若さ」が良いことや美しいこととされ、歳を重ねることが忌避されるべきものと思われているのかということについて、日々の生活の様々な場面で疑問を抱いたり、考えたりすることが少しずつ増えていった。
そんな、私が抱いていた世の中の「外見」や「美」に対する価値観への違和感を、客観的に考えるための一つの手がかりを与えてくれた本が、『ひとはなぜ服を着るのか』(著:鷲田清一 ちくま文庫)というファッション・モード批評集だ。
この本の中では、臨床哲学や現象学、身体論などを専門とする哲学者である著者によって、人はそれなしには生きていけないにもかかわらず、うわべや外見の問題として軽く見られ、深く考えられることの少ない「ファッション(装うという行為、化粧、顔、皮膚、身体なども含む)」や「衣服」について、社会的な視点や身体論的な視点から多角的に分析されている。
普通は「どのように装うか」「何が流行か」「センスがいいかどうか」というような視点で語られることの多いファッションや装いの問題を、「なぜひとは服を着るのか」「なぜファッションの問題は軽んじられるのか」「ある服を着るというのは、自分が社会や他者との関係性の中でどのような意味を持つのか」など、普段はなかなか考えないような方向性や深度で考える方法や糸口を読み手に与えてくれる。20年以上前(1998年)に出版された本のため、ジェンダーやフェミニズム的な観点で見た時にやや危うさや違和感を感じる部分や時代的に合わない部分もあるのだが、それを差し引いても、今読んでも決して古びていない、多くの示唆に富んだ内容だ。
そしてこの本では、私がずっと疑問を抱いてきた「若さ」を美徳とするような価値観について、こんなふうに語られている。
“齢を重ねたように見えることを、人はなぜこうも忌避するのでしょうか。なぜ、肌について、ひとはこんな画一的な美的標準しかもてないのでしょうか。肌が艶や張りを失うこと、このことを嫌う一つの強力な理由は、それによって現在を人生の下り勾配と感じるからでしょう。疲弊、減退、萎縮、衰弱、下降、弛緩、崩壊といったイメージが折り重なってきます。逆に言えば、生きているということが何かを生みだすような力や緊張があるというふうに理解されているということです。ここには、存在の力を生産性という次元で、時間の経過を累進性という次元でとらえる思考法がみられます”(p.155)
“若く見せる化粧というのは、ひとの心を老けさせる。人間の存在を生産性において規定することで、じぶんをその生産性において退化しつつあるものとして意識させるからだ”(p.179)
写真家の石内都さんの『1・9・4・7』という、1947年生まれの当時40歳代の女性の身体のパーツばかりを収めた写真集を紹介しながら、著者はこう問いかける。年齢を重ねた人のもつ、深く皺が刻まれた手足や、ひび割れやタコのような硬化、アイロンを当てすぎた服が発する鏝光りのような艶のある皮膚には“時間の苦しみ”や“歴史の悶え”といった、その人にしかない時間や経験の蓄積や痕跡があり、それこそが彼女たち自身なのではないか。そうであるならば、小皺などをメイクで隠して肌を均質にした、“時間を消去された顔と身体”は本当に「美しい」のだろうか、と。
そこにはまさに、20歳の私が感じた、少し心に痛みや悲しみを伴うような違和感や疑問への答えが書かれていた。それは、歳を重ね、様々な経験や感情や学びを自身の内に積み重ねてゆくことは間違いなく豊かさであるはずなのに、ひとたびそれが顔や身体といった外見のことになると、そこに時間や経験の痕跡が増えていくことを、「劣っていて、醜くて、恥ずかしい」ものとされてしまうという矛盾に対する、強い違和感だったのだ。
しかしその一方で、確かに「歳を重ねることは豊かだ」と思っているにもかかわらず、外見の「美しさ」について、若さに由来するような特定のイメージをよしとする価値観が社会の中であまりに強固であるために、嫌でもそれを内面化してしまっていること、そこから完全に自由になるのは難しいこともまた、否定できない。
数年前に、同じく石内都さんの「Innocence」という、女性の身体の傷跡を収めたシリーズの写真を横浜美術館の「石内都 肌理と写真」展で見た時、私は内心とても動揺した。なぜなら、自分の中に「白くなめらかで傷や歪みのない肌や身体が美しい」という価値観が強固に植えつけられているために、そうでない肌や身体を見ることに、無意識に戸惑いや忌避感のようなものを感じてしまっていることに気づいたからだ。
「よい」という価値観は、“ある時代、ある集団のなかで、みんながそう思っているだけのことが多い(p.155)”と言われてもいるように、何を「よい」とか「美しい」と思うかは、テレビやファッション雑誌やインターネットなど、メディアによって社会の様々な場所でそのイメージが喧伝されていることによる影響が、とても大きいように思う。
写真や動画の加工技術の発達も相まって、雑誌や映像やSNS上で目にする人の写真や動画は、傷やしみ一つ無い、つるりとした白い肌のイメージで溢れている。確かに、肌荒れやクマのない、なめらかでつややかで血色の良い肌や顔の方が、健やかさがあって見る人が安心したり、好ましく思ったりするのも無理はないのかもしれない。
けれども、芸能人やインフルエンサーたちがメディア上で見せる顔や肌や身体こそが「美しさ」なのだと日々見せられ刷り込まれ続けていると、誰でも多かれ少なかれ、次第にそうではない自分の顔や肌や身体に落胆したり、拒否感を抱いたりするようになる。それが行き過ぎれば、社会が突きつける「美」の強迫観念に囚われた結果、摂食障害や醜形恐怖症などに行き着くこともあるだろう。
自分自身がある特定の顔や身体のイメージを「美しい」と思い、そこに近づくことをよしとして個人的な努力をすること自体は悪いことではないし、ファッションや美容がもたらしてくれる、ポジティブな気持ちや力や豊かさは素晴らしいものだ。けれどもその基準や価値観が、外からの強制やジャッジ、強迫観念となって自分や誰かを苦しめているのだとしたら、それは紛れもない暴力であり、一刻も早くそこから脱け出す必要がある。
多くの場合、「何を美しいと思うか」「何をよいと思うか」といった価値観は無意識のうちに多くの人々に刷り込まれてしまうため、それを疑うことなく当たり前のものとして受け止めてしまいやすい。そして、自明のことだと思っているからこそ、他者にその価値観を押し付けていることの暴力性や、その外側にいくらでも違う価値観や選択肢があることに気づくことのできない人も多いのだろう。
しかし、多くの人が当たり前だと思っている価値観には、実はその根底にジェンダーや人種などに基づく偏見や差別があることも少なくない。現に、特に女性に関して「若さ」をよしとする価値観は、紛れもなく家父長主義的な社会の価値観(男社会の中でより強い権力をもつ男性が女性の「若さ」や「処女性」などに価値を置いてきたことなど)からきていると考えられるし、「白い肌」や「二重まぶた」を称賛する考え方は、白人至上主義的な価値観を反映したものであるといえる。
メディアが「美しい」ものとして紹介しているから、みんなが「よい」と思っているからといって、それが絶対的に正しいわけでない。その背後に暴力性や差別性のある価値観や基準には、積極的に声を上げNOを突きつけていく必要があるし、特に多くの人への影響力があるメディアなどは、偏った価値観ばかりを肯定するようなイメージを広めることの暴力性とそうしないように努める責任を、もっと自覚すべきだと切実に思う。
そして、社会の中の画一的な価値観が変化していくこと、そのために働きかけていくことはもちろんとても重要だが、一朝一夕に実現することを期待するのは難しい。だからそれと並行して、自分以外の誰かが様々な形や方法を通してこれまで表現してきた、既成概念に揺さぶりをかけてくれるような、違和感を抱いていたことについて言語化し肯定してもらえるような価値観の具体例にできるだけ多く触れ、それを自分の中に積み重ねてゆくこともまた、自分や誰かを傷つけうる「美の固定概念」から自由になるためには大切なのではないだろうか。
冒頭の「手」をめぐる出来事以来、私はその時の想いや記憶を度々思い出し続けながら、様々な場所で出会った、若さや画一的な美の在り方をよしとするのではない価値観を反映した言葉や作品を、密かに自分の中にストックしてきた。それはたとえば、先ほど紹介した石内都さんの「Innocence」であり、詩人・茨木のり子さんの「小さな娘が思ったこと」という詩であり、アイドルの和田彩花さんが、あるファッション撮影で、目の下の青クマやソバカスをコンシーラーで厚くカバーされることのない姿を写してもらえたことへの喜びについて記したTwitterの投稿であり、今回紹介している『ひとはなぜ服を着るのか』という本でもある。
感動してる、自分の目の下の薄い皮膚と膨らみと青クマがありながら写真に写ってること。コンシーラーを何度も重ねることで、目の周りが通常以上にモタっとし、またそれをカバーするように化粧が足されていくことが少し心地悪かった。ソバカスも無いものにしなくても良い気がしてた!うれしい。 pic.twitter.com/lvTSsH3GnX
— 和田彩花 (@ayakawada) June 12, 2021
最近では、写真家の長島有里枝さんが、自身のInstagram投稿に関してインタビューで語っていた内容に、大きな力をもらった。
“作品と同じで、ちょっと写り込んでいるフォトジェニックじゃないものをどかしたり、片付けたりしないことこそ美しいと思う、一般的な「映え」観とは違う感覚でやってます。家にいるときは化粧をしませんし、朝から原稿を書いていたら髪もボサボサのままだったりするけれど、そういう写真も面白いと思えば載せてますね。毎日、仕事も家のことも一生懸命やって生きている結果、掃除や片付けをする時間がないならしょうがないかなと思うし。別に恥ずかしいことではないかな、と。” (The Fashion Post 『「誰もやらないから、自分でやるしかない」写真家・長島有里枝が言葉で語り続ける理由』より)
1990年代から、セルフヌードを含むセルフポートレートなどの作品を通して、男性や社会が女性に向ける性的に消費する眼差しの存在やその暴力性を暴くというフェミニズム的な抵抗やアプローチを行ってきた長島さんの写真集『Self-Portraits』には、乱雑に散らかった生活感溢れる部屋や、ニキビもシミもそのままのすっぴんの顔、ボサボサの髪、クタクタの部屋着姿の長島さんの姿が数多く写っている。
その一連の写真を見ていると、服もメイクも髪型も身体もすべてが完璧に整えられた姿だけが美しく、そうではない無防備で生活感溢れる姿は見苦しく、人に見せるべきものではないと当たり前に思ってしまっていた価値観の存在に気づかされる。そして、たとえ自分ではまだそれを実践する勇気はなかったとしても、「日常を一生懸命生きている姿は、どの瞬間も恥ずかしいものではない」という価値観があることを知り、それが心の片隅にあることは、きっと心強い支えや救いになる。
どんなに固定観念や先入観から自由であろうと努めていたとしても、人は必ず何かしらの価値観の檻に囚われていて、その中で葛藤したり苦しんだりしている。そこから自由になるためには、常にそのことに自覚的であり続け、目の前の「当たり前」を疑い、日常の中の小さな違和感を無視せずに向き合いながら、自分の中に一つでも多くの価値観や物事の見方を蓄えていくしかないのかもしれない。
もちろん「美の固定観念」についてだけではなく、実はどんな人にとっても密接に関わりのある、「ファッション」や「装うこと」を取り巻く様々な概念や価値観や問題を、これまでに見たことも考えたこともない視点と深さでまなざし考える方法を、『ひとはなぜ服を着るのか』はたくさん教えてくれる。
ファッションが好きで心から楽しんでいるという人も、苦手意識や苦しさを感じているという人も、あまり関心がない人も、きっと誰にとってもこの本を読んだ後は、目の前に広がる世界の見え方が少しだけ、変化し開けたように感じるのではないだろうか。
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