世の中は、いつも恋愛の話で溢れている。たしかに恋愛は、多くの人にとって素晴らしくて楽しいものであるのかもしれない。けれども現実の世界でもテレビの中でも物語の中でも、いたるところで“男女”の恋愛ばかりが取り上げられ、それが当たり前にすべての人にとっての最重要事項であり関心事であるかのように扱われていることに、時々とてもうんざりする。
男女の恋愛関係こそが、この世では一番重要かつ最高なものであり、あたかもそれ以外の関係性(同性間の友情・同性間の恋愛・その他様々な関係性)はそれに劣るものであるようにみなされていることに対して、疑問や居心地の悪さを感じている人も、決して少なくないのではないだろうか。
エッセイ集『女ともだち ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』(著:はらだ有彩 大和書房)は、「男と女」に対して、しばしば“「一」未満”のものとして軽んじて扱われることの多い「女と女」の関係性に着目し、様々な物語の中に登場する女たちの繋がりの在り方を一つ一つ丁寧に紐解くことを通して、この世界には男女の恋愛関係だけではない「ただそこにあるだけで大切で唯一無二の関係性」が多様に存在していることを、明らかにしようと試みている作品だ。
3つの章に分かれて紹介される13組の「女と女」たちの関係性は、実に多種多様だ。
それは、映画『花とアリス』の主人公・アリスと花のような学生時代の友人同士や、映画『プラダを着た悪魔』のミランダとアンドレアのような仕事上の上司と部下、中世に書かれた古典物語である『我が身にたどる姫君』に登場する前斎宮と中将の女性同士の恋愛関係、あるいは海外児童文学『ふたりのロッテ』に出てくるロッテとルイーゼという双子の関係であったりする。
その関係性は友愛・恋愛・連帯・腐れ縁、あるいは言葉で明確に定義するのが難しいものであったりするのだが、いろいろな女二人の物語を一つ一つ見ていくと、“特別”で“重要”な関係性は、何も「男女」の「恋愛関係」に限らないのだということが、また、一緒にいる時間の長さや距離の近さが、必ずしも二人の関係性の重要度に比例するわけではないことが、次第にはっきりとわかってくる。
そしてこの本の素晴らしいところは、様々な物語の中の女たちの関係性を追っていく中で、自然と今の社会の構造や価値観の問題に気づき、改めて考えるきっかけとなりうるようなヒントが、数多く散りばめられているところだ。
たとえばその一つは「異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)」についてである。異性愛規範とは、“「世の中には男/女しかいない」「セックスや恋愛、結婚は男女間で行うべきものである」という規範、思い込み(バイアス)のこと”を指す。(PRIDE JAPAN 用語解説 より)
もしかすると、一般的にはまだあまり耳なじみのない言葉かもしれないが、ジェンダーやセクシュアリティについて知ろうとすれば、必ず早い段階で出会うことになる言葉であり概念だ。社会の中の多くの人々は、男女間のセックスや恋愛や結婚が“普通”であり“あるべき姿”であると思ってしまっているために、そうではない関係性を「価値が低い」「正しくない」と考え、LGBTQ+などと呼ばれるセクシュアルマイノリティの人々への偏見や差別、抑圧的な言動に繋がりやすい。
異性愛主義的で恋愛至上主義的な価値観がはびこった社会では、その枠組みや価値観に当てはまらない、マジョリティであるシスジェンダー(出生時の性別と性自認が一致)でヘテロセクシュアル(異性愛)以外のジェンダーやセクシュアリティを持った人々は、とても肩身が狭く、生きづらい。彼ら彼女らの気持ちや大切に思う関係性は“ないもの”のように扱われたり、“特殊なもの”として、好奇や偏見のまなざしを向けられることが多いからだ。
私自身も、アセクシュアル(他者に性的魅力を感じない・感じにくい)・グレイロマンティック(他者に恋愛感情を抱きにくい)という性的指向を自認しており、昔から「友情の好きと恋愛感情の好きの違いがわからない」と思いながら生きてきた。アセクシュアルはセクシュアルマイノリティーの中でもかなり少数派なこともあり、その感覚や性質を他者に説明して理解してもらうことは簡単ではない。
でも、恋愛感情の好きがよくわからないからといって、人を好きと思う気持ちがないわけではない。「あの子の存在がなかったら、当時や今の私はいなかったかもしれない」と思うような、自分のアイデンティティの形成に重要な影響を与えられたり、心の支えや拠り所となったりするような大切に思う友人たちはいるし、恋愛感情ではなくとも人に強く惹かれることもある。
また、縁あって私はアセクシュアルでありながら異性のパートナーと交際し結婚もしており、たしかに夫は生活を共にする「家族」として、唯一無二の大切な存在であると言える。しかし、私には他者に対する恋愛感情や性的に惹かれる気持ちがほとんどないために、どうしても、夫との関係性だけが、他の大切な女友達の存在や関係性と比べて絶対的に特別で重要で優れているとは思えないところがあり、そのことに少なからず罪悪感や後ろめたさのようなものを感じてきた。
しかし、この本の中で紹介される、友人や、恋人や、反面教師的な存在や、わかりやすい言葉で言い表すことの出来ない関係性、一度は強い気持ちで結ばれていたものの違う道を行くことになった二人といった、とにかく様々な女たちの存在とその関係性の在り方を目の当たりにしていく中で、気づけば私はこう思っていた。
「恋愛も友情もそれ以外も関係なく、それぞれの人との関係性が自分にとって唯一無二であり他とは比べられないことは、何も私がアセクシュアルだからではなく、むしろ当たり前のことなのでは? それぞれが大切かつまったく違う性質の関係性であるのに、どうしてわざわざそこに優劣を付ける必要があるのか(いや、そうする必要など微塵もない!)」
「運命的に出会って、結ばれて、末永く人生を共にする男女の関係性」ではない、それ以外のありとあらゆる関係性は、男女の恋愛関係と全く同じだけ、その人にとって大切であり特別であり唯一無二でありうるのだという、よくよく考えればある意味当たり前のことを改めて言葉で示してもらったことで、私はとても勇気づけられたのだ。
なお厳密には、この本の中に「異性愛規範」というワードは出てこない。著者が主題としフォーカスを当てているのは、あくまで「女と女」の関係性だ。それは、女性同士の関係性が、男性との関係性を築く前段階の“年齢やライフステージに左右される過渡的なもの(p.4)”であるとか、「女の敵は女」や「レズ」のように、実際の本人たちの関係性や気持ちの内実よりも、エンタメ的・性的に消費し面白がろうとする人たちによって勝手に特定のイメージが与えられ、歪められ、貶められてきたという社会的・歴史的側面があるという理由からである。そういった事実がある以上、あえて「女と女」の関係性について書くことにはとても重要な意味があるし、それを安易に「みんな」に当てはめようとするのは不当であるのかもしれない。
しかし、著者がこのエッセイを通して伝えようとしていることは、単に女性たちやレズビアンの人たちだけでなく、日々異性愛規範や恋愛至上主義的な価値観に苦しめられ、モヤモヤした気持ちを抱えているすべての人にとっての光となりうるのではないか、とつい思わずにはいられない。
たとえ異性愛者であっても、「恋愛を経験していなければ人間として未熟」であるとか「結婚してこそ一人前」という社会の価値観や圧力によって苦しめられている人は、意外と多いのではないだろうか。恋愛のパートナーがいないこと、結婚していないことを「寂しい」、「不完全」、「一人前ではない」などと他人から思われるいわれもなければ、その人にとって一番大切な存在や関係性が、必ずしも「恋愛」や「結婚」である必要もない。どうして「男女」の「恋愛関係」だけが最も重要なものであると思わなければならないのか。なぜ、どんなに素晴らしい友人や家族や仕事仲間がいて充実した日々を送っていたとしても、「恋愛」のパートナーがいないと、「足りない」と感じさせられなければいけないのか。
私は「女」であり「アセクシュアル」であるために、とりわけ『女ともだち ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』の内容に救われてしまった部分も大きいのかもしれない。けれども、恋愛であろうが友情であろうがなんであろうが、今そこにある、自分が大切に思っている自分と誰かとの関係性を、他の誰からも、もちろん自分自身からも、不当に貶められたり価値を減らされたり優劣をつけられたりすることなく、ただそのまま肯定することを教えてくれるこの本や、数々の物語の中の「ふたり」の姿に心なぐさめられる人は、きっとたくさんいるのではないだろうか。
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