せやろがいおじさんが過去のミソジニーを自省する理由 「間違いを認める方がよっぽど価値がある」

文=ヒオカ
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――性暴力を許さない社会にするためには男性の声も必要だと思います。でも実際は、「なかなか人の目が気になって指摘出来なかった」「被害者を守る言動ができなかった」「ホモソからはじき出されるのが怖かった」など、ためらってしまったという声も聞きます。

 被害を受けてる人を一人ぼっちにさせないこともすごく大事だと思うんですけど、声を上げた人を一人にさせないことも僕はすごく大事だと思っています。上司がセクハラをしていて、気付いた人が声を上げましたと。でも周りが「なんかあいつ噛み付いちゃったよ、流せばいいのに」みたいな空気になって、結局、声を上げた人が損するような社会はおかしいですよね。一人がおかしいと思ってるってことは、 他にも同じ思いの人がきっといるはず。

 だから、一人でやろうと思わずに、どう連帯の輪を広めていくかが大事なんじゃないかなと思うんです。あれおかしくない? やっぱりおかしいよねっていう連帯を広めて、自分より上の立場の人に立ち向かうということも重要です。

 僕も動画を作って発信しているんですけど、全部一人でやってるわけじゃなくて、性暴力の当事者団体の方や、弁護士の方からお話を伺いながら作っています。僕は当事者じゃないし、何も知らないから、こういう言葉で大丈夫ですかねとか、俺がこう思うのはおかしいですかねとかやり取りしてからアップしています。

女性の生きづらさも男性の生きづらさも、根っこは同じ

――最近ジェンダーに関するトピックで議論を呼んでいるのが、小田急線で起きた傷害事件です。この事件は、「幸せな女性を殺したかった」「男にチヤホヤされてそうな女性を殺してやりたい」などと犯人が供述していると報じられたことから、フェミサイドではないか? という論争が起こりました。他方、一部のニュースなどで、「幸せな女性を殺したかった」という供述を「幸せな人を殺したかった」に差し替えて報道されたことも物議をかもしました。せやろがいおじさんはこの事件、またそれを取り巻く議論についてどのように感じられましたか?

 正直フェミサイドっていう言葉を初めて知りました。女性への憎悪が高まって、その感情に従って女性に対して殺人行為に及ぶというのはフェミサイドに他ならないというのが僕の見解なんです。

 一方でフェミサイドじゃないという意見もよく見ましたね。男性が狙われたらただの事件で、女性が狙われたらフェミサイドなの?という意見もありましたけど、正直めちゃくちゃ雑な切り取り方してるなと思いました。仮に幸せな男性を殺したかった、といって男性を狙った事件が起きたら、それはちゃんとフェミサイドの男性版のものと指摘されるでしょうし。女性の権利が迫害されたり侵されたことに声を上げたら口を塞ごうとする人がいるというのが改めて可視化された印象です。

 声を上げる女性やフェミニストに憎悪を募らせる人がネットには多いなと。僕はまとめサイトにかわいい猫画像を見るためにアクセスすることがあるんですが、いっぱい記事があるなか大概一つはフェミニスト叩きみたいなのがあるんです。

 フェミニストを揶揄して遊ぶものってPV(ページビュー)がとれる。まとめるほうは意図的にPVを上げるために煽って、その場にフェミニストを憎悪する人が集まる。それをたまたま目にした人たちが男女間の不均衡さとか、これまでフェミニズムによってどう社会に変化がもたらされてきたかっていう歴史をまったく知らずに、フェミニストってこういうヒステリックで、火のないところに煙を立てる、被害妄想のある人たちなんだと、そこで使われているフェミニスト叩きの言葉をぼんやりとインストールしてゆるやかにそれに加担していく。

 PVを稼ぐコンテンツとしてフェミニスト憎悪が使われていて、声を上げる人を封じにいっているというのは広告収入で利益を得るビジネスモデルの弊害が出ているなと思います。PVがとれるから、ユーチューバーもそこに手を出してしまう。例えばちくわさんっていうユーチューバーがフェミニストのモーニングルーティーンっていう動画を出していました。(そこで出てきたフェミニストは)そんなやついないだろっていう。フェミニストってやばいやつだからからかっていいんだってイメージで扇動しているところがある。

 その動画のコメント欄を見たら、やっぱりフェミニストを馬鹿にするような書き込みが多くて。PVや再生回数を稼ぐアイテムとしてフェミニスト叩きがあって、その層が着々と拡大していってると感じます。

――女性差別があるという現実を受け入れられない理由として「男性だって苦しんでいる」「女尊男卑な部分もある」という主張もあります。男性社会での生きづらさを引き合いにだし、女性差別を矮小化したり、認めない人もいるのが実状です。男女の不平等や、女性差別の解決に向き合いつつ、男性の生きづらさについても議論していくために、どんなことが必要だと思いますか?

 当然男性の生きづらさはあって、それを訴える意義はありますよね。でも俺たちだってつらいんだから(女性も)我慢しろみたいな、女性の生きづらさを“相殺するため”に、男性の生きづらさをぶつけるのは違うんじゃないかと感じています。

 女性の生きづらさも、男性の生きづらさも、根っこは同じで、ジェンダーバイアス・ジェンダーロールが原因。男はこうあるべき、女らしさってこういうものという。たとえば、男性は収入や社会的地位が必要で、家族を養わないとだめってジェンダーロールがあって、それができないと苦しくなってしまう。女性に対しては一定の年齢になったら結婚・出産するべきといった圧力がある。

 声をあげる女性に対して、「そんなことない」と透明化する必要なんかなくて。社会の中にあるアンコンシャスバイアスなど、生きづらさを感じている人の共通の課題として認識できたら変わっていきそうな気がします。

 ただ、男性側としては、今の社会には権力の勾配があって「男として産まれたことで特権を享受している」ということを、まず認識するプロセスを経ないといけないと思います。我々が生きづらさを感じるのは、ジェンダーロール・ジェンダーバイアスが原因という大前提をしっかり共有した上で、特権を享受してる部分はあるし、無自覚の加害をしてることもあるから、そこは自覚自省していこうよと。

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