「国会が開かれない」ということが大きなニュースとなるなかで、そもそも「通常国会」と「臨時国会」とは何か、法案はどのようなプロセスを経て施行されるのかなど、国会の仕組みを理解したいと思う人も少なくないことでしょう。政治ライターとしてさまざまな媒体に寄稿する平河エリさんの初の著書『25歳からの国会 武器としての議会政治入門』(現代書館)は、選挙制度や法案の審議プロセス、さらには「国会」や「三権分立」の意味そのものをわかりやすく解説した一冊です。未曾有の事態を経験する私たちは、国会のどこに注目すべきなのか。著書に込めた思いととともに平河さんにお聞きしました。(聞き手・構成/柳瀬徹)
平河エリ(ひらかわ えり)
ライター。京都市出身。早稲田大学卒業後、外資系IT企業にて勤務し、その後コンサルタントとして独立。ブログ「読む国会」が話題となり、ライターとして議会政治、選挙などを専門分野に活動。朝日新聞、講談社、扶桑社、サイゾーなど各社媒体で執筆。
なぜ国会は開かれないのか
――国会中継は見ないまでも、ニュースや新聞で国会の動きは見ているつもりでしたが、この本を読んで理解できていないことの多さに驚きました。通常国会の会期が150日しかないことは知ってはいたものの、多くの国の議会では議員の任期がそのまま会期となっていたり、通年会期制を導入していたりと、日本の国会会期の短さがむしろ少数派であることは知りませんでした。6月16日に通常国会が閉会した翌月に4回目の緊急事態宣言が出され、デルタ株による感染が拡大するなかで東京オリンピックが挙行されてしまったわけですが、その間も国会が稼働していないということをどう考えるべきでしょうか?
日本国憲法53条では、いずれかの議院の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会の招集を決定しなければならないと規定されています。立憲民主、共産、国民民主、社民の野党4党は7月16日に、4分の一以上の議員による招集要求書を衆議院議長に提出していますが、菅義偉政権は招集に応じることなく、必要に応じて委員会審議を行う「閉会中審査」で対応している状態です。何回も緊急事態宣言が発出される前例のない事態では、法改正も含めたきめの細かい議論が必要となる場面も多いはずですが、53条の要件を満たしても臨時国会が招集しないところに、菅政権の性格が表れていると思います。
――53条については、2015年に野党からの要求が出された際に安倍内閣が応じず、2017年には3か月以上応じなかった末に開催した臨時国会の冒頭で解散が宣言されたこともありました。審議が行われなかったことの違憲性を問う裁判が、沖縄、東京、岡山で提起されましたが、那覇地裁の判決(20年6月10日判決)でも、東京地裁の判決(21年3月24日)でも憲法判断を避ける形で棄却されています。
内閣が53条要求に応じなかった例は安倍政権以前にも3例ありますが、安倍政権以降は53条要求だけでなく、公文書の改ざんや廃棄、政府見解の改変など、戦後を通してみても特異な政権運営がなされています。これだけ恣意的な運営ができるのは、政権交代を実現できそうな対抗勢力が存在しないこともありますが、政策を立案し実行したり、状況と合わなくなった制度を改変するといった「変える力」が弱くなっていることもありそうです。世襲議員も多く、ベテラン議員も増えたことで、変えるインセンティブが低下しているのではないでしょうか。
「解釈」をめぐる闘争
――お話に出た公文書管理の問題は、重要視する人とそうでない人の温度差が大きいように思えるのですが、そもそもなぜ公文書を残すことが重要なのでしょうか。
中立的かつ客観的に記録を残すことで、はじめて後世の評価に委ねることができます。法案や法改正の評価には、施行後に起こった社会変化だけでなく、議論のプロセスも不可欠です。成立までの過程で法案が無力化していたとすれば、立案、審議から成立にいたる制度の改革も必要になりますが、公文書が残されていないと改革の精度も低くなってしまいます。
――政界に限らず、正確に記録する、しかるべきコストをかけて保管するという文化は苦しい立場に追いやられているように思えます。
社会全体がそのような構造になっているのかも知れません。私も本業でさまざまな企業の方とご一緒する機会がありますが、「あうんの呼吸」でことが進んでしまう、そんなエコシステムができあがっているように思います。非言語的コミュニケーションのすべてが悪いわけではありませんが、恣意的な解釈を挟まない健全な議論を行うには、中立的な記録が不可欠です。
――2016年の安全保障関連法施行、いわゆる「安保法制」により憲法9条の定める集団的自衛権の解釈が変更され、「密接な関係にある他国」が攻撃を受けて日本の存立をも危うくなる「存立危機事態」には、集団的自衛権を行使できることになりましたが、前後するように解釈を閣議決定するという政治手法も多用されました。
安倍政権の目指した憲法改正がうまくいかなかったために、解釈を巡る闘争へと方針をシフトしたことで、あちこちで「解釈の戦争」が多発するようになりました。たとえば日本学術会議の人事案を菅内閣が拒否したことも、長年の慣例を解釈でひっくり返した典型事例です。結局のところ、安倍前首相がやりたかったことで実現したのは安保法制だけだったのではないかと思いますが、国会が大きく二つに割れ、市民の抗議行動も大きなものとなりました。大きな転換点といえます。
――安保法制反対運動の象徴的な存在となったのが、学生たちによって組織された「SEALDs」でした。少し上の世代にあたる平河さんの眼にはどう映っていましたか?
同世代には、少し距離を感じていた人が多かったのではないでしょうか。、それが市民と政治との距離そのものだったのかも知れません。また、SEALDsは戦後の左派運動の歴史を背負ってしまって、やりにくそうにも見えました。その後、SEALDsのメンバーの何人かは「ブルージャパン株式会社」を立ち上げ、立憲民主党の広報戦略などを含めたシンクタンクとして活動していますが、立憲民主党の選挙戦略としてあまり機能しているようには見えませんでした。
SEALDsが成し遂げたこと、達成できなかったことも含め、安保法制周辺で起こったさまざまな動きをしっかりと整理し総括することで、政治と市民の距離の問題を考える材料になると思います。
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