さて、マルクスの分析から1世紀半以上が経ちました。この分析は古びるどころか、ますます重要性を増しているように思われます。20世紀後半の時代には、民主主義の基本構図は利益代表者としての政党が権力を取り合うというものでした。日本の場合ならば、労働者階級を代表するのが社会党で、財界や自営業者を代表するのが自民党、といった具合です。
ところが21世紀に入り、この構図の揺らぎが顕著になってきました。欧米の状況についてよく指摘されますが、伝統的に労働者階級を代表していた左派政党がその支持基盤を失い、右派、とりわけ既存の保守政党の利権ネットワークに与ってこられなかったような極右勢力が労働者階級から得票する現象も現れてきました。
こうして、政治における代表関係が不透明となり流動化するなかで、「右でも左でもなく全員を代表する」ことを標榜する政治家が人気を博するようになる。フランスのマクロン大統領はその典型です。
マルクスの古典的分析が教えるのは、「代表する者」と「代表される者」との関係は利害関係によって自動的に直結する単純なものではそもそもない、ということでした。ルイ・ナポレオンを皇帝の地位にまで押し上げた社会的階級として、マルクスは「分割地農民」を挙げています。
なぜ貧しい農民たちがルイ・ナポレオンを強く支持したのか。いわく、
彼らは自らを代表することができず、代表されなければならない。彼らの代表者は同時に彼らの主人として、彼らを支配する権威として現れなければならず、彼らを他の諸階級から保護し、彼らに上から雨と日の光を送り届ける、無制限の統治権力として現れなければならない。したがって分割地農民の政治的影響力は、執行権力が議会を、国家が社会を、自らに従属させるということに、その最後の表現を見出した。
(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』植村邦彦訳、太田出版)
私たちが「私たちの代表者を持っている」という意識、言い換えれば、「あの人たちは私たちを代弁して私たちのために働いてくれている」という意識を人々が持てなくなればなるほど、「私たちの代表者」は「支配する権威」として現れてくる必然性を、マルクスはここで指摘しています。そしてそのとき、「執行権力」、すなわち行政権力は、無制約的に力を振るうことになるのだ、と。
2012年に始まりいまに至るまで続いている自公政権の権力が、一体誰をどのように代表しているのかを考えてみる際にも、マルクスの著作は示唆するところが多々あるのです。
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