
『ピグマリオン』(光文社)
オードリー・ヘプバーン主演の映画『マイ・フェア・レディ』(1964)はロマンティックで楽しい作品として世界的に人気があります。1956年初演で映画の原作となった同名の舞台ミュージカルも頻繁に再演されていて、今年の11月に日本でも再演される予定です。
アラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウによるミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作は、アイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』(1913年初演)なのですが、舞台芸術史上でも屈指の誤解や魔改造を経験している作品と言えます。
『ピグマリオン』じたいがもともといろんなお話を取り込んで作られている上、ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』は『ピグマリオン』とけっこう違うお話です。さらに『マイ・フェア・レディ』の影響を受けて作られた派生作品もたくさんあります。この記事では、『ピグマリオン』がいかに解釈をめぐるいろいろな批判や混乱に巻き込まれてきたかを説明したいと思います。
『ピグマリオン』の誕生
『ピグマリオン』は、貧しい花売り娘イライザが言語学の教授ヒギンズに教育を受け、社交界で立派なレディとして通用するようなマナーと言葉使いを身につけるという作品です。
イライザはもともと上昇志向のある労働者階級の女性で、もっと良い職場で働くためのミドルクラス風の話し方を習いたいと思ってヒギンズのところにやって来ました。研究仲間であるピカリングがイライザを教育するためにかかる費用について賭けを持ちかけたこともあり、ヒギンズはイライザを教育することにします(第2幕)。イライザは苦労の末に目覚ましい進歩を遂げ、貴婦人のような話し方を身につけます。しかしながらすっかり知的な大人の女性に成長したイライザに対して、ヒギンズはさっぱり成長を見せず、イライザに対する粗野な態度を改めません。対等な大人としての敬意を払ってくれないヒギンズを見限り、イライザは出て行くことにします。
このあらすじを見てあれっと思った人もいるかもしれません。映画の『マイ・フェア・レディ』は、どうもイライザとヒギンズがくっつきそうになって終わります。舞台版のミュージカルもそうです。しかしながら、原作の戯曲にはそういう気配はありません。
『ピグマリオン』はいろいろな古典を参考にして作られた作品です。タイトルの由来で、オウィディウスの『変身物語』に登場するピュグマリオンの物語はもちろん、おとぎ話の『シンデレラ』もヒントになった作品のひとつです。
もうひとつ、かなり影響を与えていると思われるのがウィリアム・シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』です。『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピア劇の中でも最も物議を醸す作品で、じゃじゃ馬キャタリーナがペトルーチオの策略によって大人しい妻へと作り変えられる様子を描いており、しばしば性差別的だと批判されます(詳しいことは最近、日本語訳が出たアン・タイラーによる『じゃじゃ馬ならし』翻案である『ヴィネガー・ガール』(集英社)に私が書いた解説を見てください)。
ショーはこの作品の結末にとても批判的で、女性を賭けの対象にするひどい内容で見ていられないと文句たらたらでした (Shaw on Shakespeare, 180)。『ピグマリオン』はショーのこうした『じゃじゃ馬ならし』に対する違和感を反映していると考えられており、お話の作りは賭けを通して女性を作り変えるというソックリな内容なのに、結末はほぼ正反対です(Pedersen:大江、pp. 72–76)。「あんたなんか怖くねえし、あんたなしでもやってけんだから」(第5幕、小田島訳p. 233)ときっぱりヒギンズに言い放って出て行くイライザは、男性の保護を必要としない自立したカッコいい女性です。
戯曲『ピグマリオン』は、ヒロインが自分を教育しようとした男性の子どもっぽさに愛想を尽かして出て行くという、フェミニズム的で辛辣な内容です。イライザが出世のために丁寧な話し方を習おうとするという展開も、イギリスが階級社会で人間を話し方やマナーだけで安易かつ形式的に分類していることを皮肉っています。ショーは社会主義者でしたが、『ピグマリオン』にはそうした著者の思想が反映されており、実は階級差別、性差別、見た目や形式にばかりこだわる硬直した社会を諷刺するとんがった作品なのです。
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