
Gettyimagesより
少し前まで、「一部の限られた人だけが好むもの」という印象の強かったBL(ボーイズラブ)作品。しかし最近では、『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)や『きのう何食べた?』(よしながふみ原作・テレビ東京系)などの男性同性カップルを描いたテレビドラマや映画のヒットの影響もあり、一般的なエンターテインメント作品の一つとして気軽に触れ、楽しむようになった人も多いのではないだろうか。
私自身も、ここ数年で友人からの勧めや、好きな作品を描く漫画家がBL作品も手がけていることを知って手に取ったりと、様々なきっかけを通じて少しずつBL作品を読んだり見たりするようになった。
アロマンティック/アセクシュアル(他者に恋愛感情/性的欲望を抱かない、抱きにくい)・スペクトラムの恋愛・性的指向をもつと自認するようになってからは、「異性愛をスタンダードとするのではない関係性の在り方を描くもの」という意味で、BL作品をより自覚的に読み、楽しむようにもなった。しかし、BL作品を純粋に楽しんだり、その内容に心救われたりする思いと並行して、常に「BLは、現実のゲイの人たちのイメージを歪めたり、エンタメとして彼らの存在や性を消費していることにならないのだろうか?」という疑問や葛藤を持ち続けてもいた。
誰かや何かを好きでいたり楽しんだりすることの裏で、現実の誰かを傷つけたり、差別的・抑圧的な価値観を強化することに加担しているかもしれないことに対して、無自覚でいたくはないし、そうすべきでもない。けれども、初心者にとってはすぐにその全貌を把握し是非を問うのは不可能なほど、BLの世界はあまりにも広大で深遠だ。だからそんな時は、まずは専門家の手を借りることにしたい。
自身もBL愛好家であり、BLと女性のセクシュアリティーズの研究者でもある溝口彰子氏による『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版)という本では、日本におけるBLの誕生〜現在までの歴史から、BLが生まれ発展した背景、内容の変遷、BLの功罪や役割とその可能性に至るまで、「BL」というものを非常に多面的に分析している。
BLの素晴らしさや問題点のみならず、フェミニズム的な観点で見た時の役割や意義、さらには自身の中の無意識の偏見や差別的な意識の存在にも気づかされる、BL初心者や上級者、あるいはBLにまだ触れたことがない人にとっても、多くの示唆に富んだ興味深い内容だ。
元々は、90年代に女性たちが異性愛規範や家父長主義の抑圧から逃避するためのものとして発展したBLは、当初、その主な作り手と受け手である異性愛女性たちにとって都合の良い物語だったため、男性同性愛を描きながらも、現実社会と同じホモフォビック(同性愛嫌悪的)な価値観を多分に含んでいた。しかし、ゲイ当事者からの「BLはゲイ差別だ」という問題提起や、BL愛好家自身からの「BLは女性性からの逃避」という指摘などを経て、作り手も読み手も、その無意識の差別性を自覚することになる。
それから、主に2000年代以降になると、BLという物語やその主人公たちが、現実世界のゲイ当事者や、読み手である自分たちとも繋がっていることを理解した上で、その主人公たちが現実の社会に生きていたとしたら、どんな問題や葛藤にぶつかり、それをどう乗り越えていくのか、あるいはホモフォビアや異性愛規範やミソジニーを克服するために、周囲や社会はどう変わっていくべきなのかということを、誠実な想像力をもって考え、描くように「進化」していったのだという。この本では、こうした一連の内容が、数々の作品の具体例とともに丁寧に分析され、示されている。
そして、BLの何よりも素晴らしいところは、BLのキャラたちがそもそも愛好家女性たちの“「代理人」であり「自身」そのもの”であったからこそ、“愛する自作キャラを通して、自作を愛してくれる読者のために、より愛される物語を届けようとする営みに日々、懸命に勤しむことによって、無意識的に(現実の社会をリードし、ホモフォビアや異性愛規範やミソジニーを克服するためのヒントを与えてくれるような)アクティビスト的創作が実現されていた”ことであるという。
だからこれからも、BL愛好家の女性たちは”「めいっぱいBL作品を楽しむ」“ことを、BL作家たちは”「誠実な想像力を働かせて創作する」“ことを通して、楽しく自分たちの快楽を追求していくことを続けていけば良いのだと、著者は結論づけている。(p.255-257)
そうなると、冒頭の「BLは、現実のゲイの人たちのイメージを歪めたり、エンタメとして彼らの存在や性を消費していることにならないのだろうか?」という問いへの答えは、「心配しなくて大丈夫」ということになる。
しかし本当に、私たちはあまり深く考えずとも、BL作品をエンタメとしてただ楽しんでいれば、何も問題はないのだろうか。
確かに、ある程度クローズドな場所で、広さと深さと熱量をもって活発に展開・享受されてきた商業出版のBLマンガ・小説に関していえば、その通りなのかもしれない。けれども、映画やテレビドラマなどのBLの実写作品や、ゲイだけでなく他のLGBTQ+を題材にした作品も含めたより広範囲なマイノリティを扱った作品についても視野に入れたとき、そしてそれらが一般的なエンタメ作品の一つとして広く享受されるようになってきた今、それらの作品を「ただ無邪気にエンタメとして消費する」ことについては、これまで以上に慎重に考えなければならないように思う。
たとえば、ライターの鈴木みのり氏は以下のように述べている。
”周縁化された人々、マイノリティの物語のリプリゼンテーション(再現前性:「そこにいる」のだと象徴的に表すこと)が増えていくと、その存在についての連想性が高まり広まっていく啓蒙の効果や、同じ属性の人々が勇気づけられたりロールモデルとなることなどが期待できる。(…)わたしたちは、自分のあり方や身体について、身近な人々だけでなく表象を含めた外部のイメージを通して認識していく、つまりマイノリティがメディアで可視化されないと「自分たちはないものとされている」と感じられる。”
(鈴木みのり「自分のためではない物語に親しむーマイノリティ、ジェンダー、テレビドラマと社会空間のあいだから」,『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』,青土社, p.223)
溝口氏自身も“美少年同士の緊密な友情や恋愛を描いた「美少年マンガ」や「少年愛もの」と呼ばれた作品群にリアルタイムで感情移入しながら思春期を過ごしたために、社会に蔓延するホモフォビアに影響されたり、それを恐れたりすることなく、自分がレズビアンであることを受け入れ、レズビアンになれたと感じている”(p.11)と語ってもいるように、マイノリティを扱った物語が増え、広く見られるようになることは、社会やマジョリティへの認知や理解の促進と、マイノリティ当事者のエンパワメントの両方に繋がる。
けれども、とりわけ日常的に差別や偏見に晒され透明化されているマイノリティにとって、そしてそもそも自分たちと同じ属性の人物が描かれる物語が圧倒的に少ない状況の中で、数少ないうちの一つの物語の中で描かれる内容が与える意味や影響は、想像以上に大きい。
だからこそ、そこに差別的な表現や、当事者の実態と大きく異なるような表現があれば、マイノリティ当事者は傷ついたり違和感を抱いたりするだろうし、それが特に問題視されずにマジョリティに受け取られれば、世間の中で誤ったイメージが広まる恐れもある。
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