“私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが、暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。それでも多くのひとは、膝ががくがくと震えるような気持ちでそこから逃げ出したひとの気持ちがわからない。そして、そこからはじまる自分を否定する日々がわからない。だからこそ私たちは、暴力を受けたひとのそばに立たなくてはならない。”
(上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』「まえがきー沖縄に帰る」 太田出版 p.6より)
「DV」や「女性の貧困」という言葉を、それらを問題視し声を上げる人々の姿を、メディアやSNSでしばしば目にするようになった。しかし、私自身を含めた多くの世間一般の人々にとって、まだまだその言葉は、切実で具体的な実感を伴ったものではなく、メディア上で取り上げられる、自分とは隔たれた場所にある「社会問題」の一つでしかないのかもしれない。
冒頭に引用した「まえがき」の言葉を読んだ時、思わずどきりとしながら、私はそのことを予感した。その先を読み進め、すべてを読み終えたとき、同じ国の同じ時代に生きる少女たちがたった一人で引き受けなければならなかった、想像を絶するような痛みや苦しみや孤独や困難に、言葉を失った。これまで恵まれた環境で生きてきたがために、それを少しも知らず、想像もせずに生きてこれてしまった自分自身に対する、憤りや罪悪感、痛みの混ざり合った言いようのない気持ちが、胸に溢れた。
琉球大学で非行少年・少女の問題について研究するかたわら、暴力の被害者である未成年の子どもたちの支援などを行ってきた上間陽子さんの著書『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)には、「DV」「女性の貧困」「社会問題」などといった言葉だけでは決して伝えきることのできない、日常的に暴力や生活の困窮にさらされて生きてきた一人ひとりの少女たちの、痛みや苦しみや日々の生活や人生が、上間さんとの対話を通した彼女たちの言葉で記されている。
上間さんが2012年から2016年にかけて行なった、沖縄のキャバクラや風俗店で働く10代から20代の女性たちへの聞き取り調査の内容をもとに書かれたこの本は、読み始めるとすぐ、「研究」や「調査」という言葉から連想するものとは大きく印象が異なることがわかる。
本の中で綴られる上間さんの言葉はとてもやわらかく、また、上間さんと一人ひとりの少女たちとのフランクでありながら信頼関係がにじむ会話は、まるで目の前に彼女たちの姿や心、生活が立ち上がってくるかのように、とてもリアルだ。だからこそ、そこにあるのは「暴力」や「貧困」といったただの言葉や概念などではなく、今この瞬間も、毎日家族やパートナーからの暴力の恐怖に怯え、痛みに耐え、頼れる人や逃げる場所もなく、一人で子どもを育てながら生活していくために夜の街で働く、生身の人間である若い女性たちが実際にいることを、心を抉られるようにして突きつけられる。
上間さんが聞き取りを行なった、若くして夜の街で働くようになった女性たちの家庭環境や送ってきた人生は人それぞれだ。しかしその多くは、子どもの頃から困窮した家庭で育ち、ネグレクトされていて家に帰っても親がおらず、ご飯もなく、あるいは父親や兄などから日常的に暴力を受けていたりするなど、自分の家が決して安心できる場所ではない。そして、安心して帰れる場所がないために、中学生の頃から不良グループの友達とつるんで日々夜遅くまで外を出歩いていたり、家に帰らずその時々で付き合っている男性のもとに身を寄せたりする。
そのような背景から、10代のうちに意図せず妊娠してしまう女性たちも多く、金銭的な問題や、周囲の誰にも相談できなかったことなどを理由に、中絶手術を受けられず出産することになったり、仮に出産を望み結婚しても、妊娠中や出産後に夫からの激しい暴力に遭うなどして、やっとのことで子どもを連れてそこから逃れ、一人で子育てして生活していくために収入の高い夜の仕事で生計を立てている。
「なぜ彼女たちは周囲に助けを求めないのか」「相談すれば、周りの大人たちやしかるべき機関の人が手を差し伸べてくれるのではないか」と思うかもしれない。しかし、彼女たちはしばしば警察や病院や役所などに助けを求めるものの、条件を満たしていないから、という理由で追い返されたり、医師や職員の不理解から心無い対応をされ、適切な支援や保護を受けられなかったりするなど、「相談しても仕方がない」と不信感や諦めを抱いて、ますます自分から助けを求められなくなるケースも多いのだという。
上間さんの言葉やまなざし、そして上間さんと夜の街で働く若い女性たちとの対話を通して彼女たちの抱えてきた痛みや人生を目の当たりにしたとき、まずは彼女たちのような状況にいる人々を放置してきた、この国の社会の構造や福祉・公的支援の在り方に疑問を抱かずにはいられなくなった。同時に、自分自身や世間の多くの人々が、これまで暴力や生活の困窮に晒される女性や子どもたちの存在にほとんど無関心でいたばかりか、時に無知ゆえの偏見に満ちたまなざしを向けて生きてきたことに対する、憤りややるせなさを感じずにはいられなかった。
最近「親ガチャ」という言葉が話題になった。生まれてくる子どもは親を選べず、家庭環境によって子どもの人生が大きく影響を受けてしまうことを指す言葉だ。家庭環境によって苦しめられてきた人が、その言葉を以って自分の人生の困難を嘆くことに対して、「そこから抜け出せないのは努力が足りないからだ」といった批判的な声も世間では見受けられる。しかし、この本に登場する女性たちの生きてきた道や心身に負ってきた痛みを知ったとき、絶対にそんなふうに切り捨てていいはずがない、と思わされる。
子どもは親や生まれてくる家庭を選べないからこそ、守られるべき存在であるはずの未成年の子どもが親や家庭環境によって心身の安全や生活を脅かされているのであれば、そこから抜け出し守られるよう、国や行政は責任を持って、必要とする人々に適切に行き届くような形で公的な支援をし、そしてその支援を受けることは、当事者にとって当たり前の権利であるはずだ。
夜の繁華街で10代女性向けのシェルター・シェアハウスなどを運営するColaboの仁藤夢乃さんも、虐待や困窮などの様々な事情で家に帰ることができず、適切な支援や保護も得られないために買春者からの性搾取の危険に晒されている若い女性たちが減らない理由として、「買春者の取り締まりが不十分であること」「福祉の機能不全」「当事者任せの状況」などを指摘している。
仁藤夢乃さんが指摘する買春者に都合の良い日本社会の現状 「JKビジネス」「パパ活」性搾取を不透明化する言葉
「成人男性が現金を渡し18歳未満の少女にわいせつ行為を行い逮捕」——こういった報道は残念ながら珍しくない。さらに暗雲とした気持ちになるのが、「売った側…
上間さん自身も2021年10月1日に、教育・福祉・医療関係者とともに、若年ママの出産・子育て応援シェルターである「おにわ」という施設を沖縄に立ち上げた。本来は国や行政が責任を持って支援に取り組むべきだと考えながらも、それを待っていては間に合わないという想いで、生活困窮や暴力被害などによって安心して出産や子育てが出来ない10代の少女たちをサポートするための具体的な取り組みを始めている。
その一方で、重要なのはシェルターや食事の提供、相談、経済的支援などの直接的な支援の面だけではないように思う。彼女たちの身に降りかかる様々な困難を追っていくと、これまでフェミニズムを学ぶ中で何度も触れてきた、家父長主義的で男性優位な社会の構造や男女の賃金格差、女性が自分の身体を自分でコントロールし守るための「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(生殖に関する健康と権利)」などの問題が、一日も早く改善されるべき、より切実で重要なものとして改めて浮かび上がってくる。
厚生労働省の調査によれば、日本のひとり親世帯のうち85%が母子家庭であり、平均年収は243万円と父子家庭の平均よりも40%以上低く、母子家庭の貧困率は48.1%ととても高い。そもそも日本全体の男女の賃金格差は、25.4%と世界の先進国の中でも圧倒的に大きい(OECD統計)。
ひとり親の家庭が毎年増え続け、家族の在り方やライフスタイルもどんどん変化し多様化している中で、女性がひとりで子どもを育てて生活しなければならないとき、働き方や生き方として選べる選択肢があまりにも少ないこと、普通に日中働いても、子どもを育てながら生活するための十分な収入を得られないことは、明らかに社会の構造に問題があるように思われる。
また、今の日本では学校などでのまともな性教育がなく、私たちには自分や相手の身体を知り、守り、責任を持つための適切な知識を得ることのできる機会がほとんどないことも、大きな問題だ。さらに、他の欧米の先進国では経口中絶薬や「吸引法」を使用した、安価で安全な中絶法が主流であるのに対して、日本ではいまだに女性に対して懲罰的な、金属製の器具で子宮内を掻き出す「掻爬法」と呼ばれる、安全性も劣る時代遅れの方法も使われており、手術代も10万円前後と高額だ。私自身も、こういった情報をつい最近までほぼ知らずに生きてきてしまったのだが、この国では「女性の身体を守ろう」という意識や、妊娠させる側である男性の責任を問う視点があまりにも欠如していることを改めて痛感し、苦しさがこみ上げた。
困窮や暴力の中に身を置きながら生きている少女たちは、身を守るための正しい知識や、安価で安全な避妊や中絶の方法の選択肢がないために、しばしば若年での妊娠・出産・育児という、心身や生活へのさらなる負荷やリスクを引き受けなければならなくなっている。日本でも適切な性教育が行われ、女性の身体や権利を第一に考えた避妊・中絶法が採用されて広まれば、少女たちが望まない妊娠でさらに苦しみを背負う可能性は、間違いなく減るはずだ。
ここまで私は、この本に登場する女性たちの負ってきた痛みや苦しみ、人生を見つめたときに浮かび上がってくる、社会の側が持ついくつかの問題点について考え、触れてきた。
でも、上間さんはこの本の中で、決して女性たちの経験や人生を分析したり判断したりしない。ただ彼女たちに寄り添い、時に一歩踏み込み、話しかけ、声に耳を傾けながら、彼女たちが暴力のある場所から逃げて“自分の居場所をつくりあげていくまで”をそっと見届け、その生活の記録を、物語を、言葉にしている。そして、読み手である私たちに、これまでの無関心を咎めたり、何か具体的な行動を求めたりすることもない。
本当は私自身も、この本を読んでいる間、そして読み終えた後も、軽々しく何かを言葉にすることなどできないと思った。ただこの本から聞こえてくる彼女たちの声にじっと耳を傾け、彼女たちが引き受けてきたそのあまりにも大きくて複雑な痛みや困難を、そのまま受け止めることしかできない、と。
けれども一度彼女たちの声を聴き、その痛みや現状を知ってしまったら、このままでいいはずがない、これまでのようにただ傍観していてはいけないと、強く思った。この状況を変えていくためには、一人でも多くの人が痛みをもって知り、気づき、考え、どんなに小さくても動き始めることが、間違いなく必要であり重要だ。
今の私は上間さんのように直接少女たちに寄り添い、支援できているわけではない。でも現状を知ったことで、これまではなかった考えや想像力を持ち、他の本や記事を読んでさらに学びや考えを深め、支援制度や団体について調べて「おにわ」に寄付をし、この文章を書きながら、これから先自分にできることはなにかと切実な気持ちで考えている。
『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』を、どんな言葉で人に勧めていいのかわからない。それでもとにかくこの本を、一人でも多くの人に、ただ、読んでみてほしいと思う。