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連載「議会は踊る」
この記事は公示日に公開される。候補者に触れる内容は非常に書きづらい。ということで、白票はやめよう、という記事を書く。
Twitterでは時々、「どの候補者も入れたくないので白票にしました」というリプライをいただく。私はそのたびに、「白票はやめよう」という話をしている。
私は本気で、白票を入れるくらいなら棄権したほうが良いと思っている。時間の無駄だし、開票作業の手間にもなる。白票を見るのは、徹夜で開票を行う作業者だけである。
もちろん、白票が象徴的な意味を持つ選挙区はある。例えば、共産党と公明党が一騎打ちする競合区などでは、自民党や民主党系政党の支持者がどちらにも入れずに白票を入れることで、白票の多さが注目される。
だからといって、それが議会に何らかの影響を及ぼしたり、選挙戦略に影響を及ぼしたりするケースは皆無と言っていい。ましてや、選挙結果には一票たりとも意味がない。
白票を「どちらもダメ」という意思表示だと考えている人がいる。
しかし、実態として白票は「どちらでもよい」という選択肢だ。投票の棄権と同じく、それは「他の人におまかせします、私は選択を放棄します」という意思表示である。
村上春樹氏の小説『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』(文藝春秋)に、こんなセリフが出てくる。
「おれがいつも新入社員のセミナーで最初にする話だ。おれはまず部屋全体をぐるりと見回し、一人の受講生を適当に選んで立たせる。そしてこう言う。
『さて、君にとって良いニュースと悪いニュースがひとつずつある。まず悪いニュース。今から君の手の指の爪を、あるいは足の指の爪を、ペンチで剥がすことになった。気の毒だが、それはもう決まっていることだ。変更はきかない』。」
実に示唆に富んだ話だと思っている。つまり、それが選挙というものなのである。
冷静に考えていただきたいが、候補者だって一人の人間である。完璧ではない。欠点のある人間だ。そして少なくとも、候補者がいなければ選挙は成立しない。落選する、仕事がなくなるという恐怖と危機感を抱えながら、彼ら彼女らは立候補している。
選挙は「よりマシな地獄」を選ぶものだと言われる。どちらにしても、酷いことは起こる。日本が抱える問題は簡単には解決することはない。それでも、どちらかを選ぶ。それこそが社会に関わるということなのではないか。
ぜひこの記事を読んだ人は、投票に行こう。どちらもひどく見えたとしても、誰かが当選することは決まっていることなのだ。そして、それが我々に唯一与えられた選択肢なのだから。
「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」
これはスヌーピーの言葉である。良い言葉だと思う。