セクハラ加害者の謝罪を引き出したある変化とは? ジェンダー軸に社会の変化描く『女の体をゆるすまで』/ペス山ポピーさんインタビュー

文=池田智
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ー理解し合えなかった話がたくさん登場するのも本作の特徴です。好きな芸人さんのトランスジェンダーへの無理解に傷ついて、追いかけなくなってしまうとか。

 私、もともとすごくマッチョなものが好きなんですよ。ヘビーメタルとかプロレスとか。でも、それらの文化のミソジニックな部分が嫌になって2~3年前くらいからまったく見なくなってしまったことがあります。ただ、最近は表現自体の美しさと加害性を、ある程度分けて考えるようになって、また楽しめるようになっているんですが。

ー分けて考えられるようになったきっかけはありますか?

 たとえば、私は以前は「自分の体に違和感がある」のか、それとも「性差別を受けるのが嫌なのか」の区別がついていなかったんですよ。今は自分のことを“生物学的に女性として生まれたトランスジェンダー、ノンバイナリー、男性よりの中性”と表現していますが、それまでは体への違和感と恐怖感が複雑に絡み合っていて、「セクハラされたり品評されたりするのが嫌」なのか、それとも「性別違和がある」のかがわからなかった。そうして、出生時の性別に起因する不利益に対する怒りが「女の体を憎む」ことにつながっていたんです。

 私は以前は性別違和を言語化できると思っていたんですよ。これは言語化するのが得意だったり好きだったりする私が陥った罠みたいなところがあって。性別違和は「違和感がある」以上のことではないし、何かに置き換えて語れるものではないんです。

 それでも自分の身に起こったことを言語化しようとすると、「セクハラされて嫌だった」とか「幼なじみにこんなことされた」とか嫌悪感ばっかりが言葉になる。X氏にセクハラされた時も、「女に生まれた自分が悪い」という発想でいるから、怒りの感情が全部自分に向いて自傷とかしちゃう。このマンガを描くことによって、やっとそれらが分けられるようになりました。

 今はヘビーメタルやプロレス、お笑いに対しての「好き」と「間違いに声を挙げる」は別に考えようと思えるようになったんです。でも、分けて考えるにも限界はありますが。

ーそれは具体的には?

 たとえば、私はマリリン・マンソンの大ファンだったんですが、彼はここ数年さまざまな性暴力で告発されていて。その被害が本当にひどすぎるんです。SMを隠れ蓑にした虐待とか人種差別とか。本当にひどくて、曲も聴けなくなったし、二度とアルバムを買うこともないです。

 ただ、そうした加害にはいたっていない「無知」に対してはもう少し別にして考えるようになりました。

ー対話の可能性があると。

 そうですね。努力で補っていきたいという感覚があります。

ーたしかに。恥ずかしながら私はトランスジェンダーの方がご自分のことを語ったものにあまり触れたことがなく、本作で描かれていることがいちいち新鮮でした。幼なじみで親友と言える女友達に対し「トランスジェンダー男性の自分が彼女の体を見ることには加害性があるのではないか」と悩んだり。別のインタビューでお話しされていましたが、男女どちらにも精神的な居場所がないとか……。また、現在はSNS上でのトランス差別が加速していてますね。

 トランス差別の問題は今まさに直面していることで、私も作品を否定されたことがあります。理不尽な差別に対しては反対の意を表明するようにしていますが、振り返ると私も想像力が十分でない時期があったと思います。事実、女性や怒れない人の立場を理解できず、別の生き物だと思っていたのは先に述べた通りです。

 作品にも描いたんですが、以前は「女性はセクハラされても気にならない」だろうと勝手に考えていたんです。でも、実際は女性たちは声を挙げることができない状況だった。そういう状況にいるたちが、そんな考えを持つ人間がいたと知ったら怖いですよね。私がそういう風に考えてしまったのは、「自分はトランスマスキュリン(男性よりのトランス)であり女性じゃない」と考えていたからで、立場が違うと相手のことを簡単に切り離せてしまう。

 作中でX氏を普通の凡庸な悪と表現しましたが、私にもそういう凡庸さがあって、差別をしてしまうことがある。それはすごく怖いことで、だからこそ理解する努力を続けたい。

ー理解する努力というのは具体的にどういうことですか?

 うまく言えないんですが、話を聞くことだと思います。こういう風に考えている、感じているというのを聞く。そして、たとえ理解できないことがあっても、想像はしたい。私は自分の性別違和を人にうまく伝えられなくて、性別違和のない人のことも理解できない。でも、想像することはできる。想像してもらうしかない。難しいことですが。

世界と繋がりたいと思うまで

ーセンセーショナルな部分が話題になりがちな本作ですが、最終話はペス山さん自身の変化がとても丁寧に描かれていて、心に迫るものがあります。印象的なのは会話の際に「本音にたどり着く」まで一拍待つようになったという描写。ここはとても普遍的な部分で、読んでいて目頭が熱くなります。

 これまで一般に男性的と言われるコミュニケーション方法をずっと採用してきた部分があって。それは何かというと、笑いでマウントを取ろうとしたり、会話の速度や気持ちよさを追求するところだと思うんです。昔はすぐ人を笑わせようとしたり、ヘラヘラしながら合いの手を入れたりしていた。でも、そうすると自分の気持ちが置いてけぼりになっていくことに気がついたんです。そうでなく、一拍置くことによって、本音で人と話すことになって、自分の中の本当の気持ちが出てくるようになりました。

ー最終話では「世界と繋がりたい」という言葉がたびたび登場します。これについてうかがえますか。

 小さい頃から本当に社会と分断している感覚が強くて、家にも学校にも居場所がなかったんです。作中ではくわしく描いていないんですが、ADHDの特性もかなり強めで、忘れ物をしたり、コミュニケーションがうまくとれなかったりで、先生ともうまくいかなかった。性自認のこともあったし、宇宙人みたいな感覚でずっといました。家族に対しても心理的に繋がったという感覚がありませんでした。デビュー作の『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』(新潮社)も、マゾヒズムを主題にしていますが、描いているのは孤立感の話ですよね。

ー暴力を憎む気持ちはあるのに、性的嗜好としてのマゾヒズムが自分の中に存在している。そのため、性生活も楽しめないし、自分は許されない変態であるという自罰的な思考に悩まされるというのが『ボコ恋』のスタートでした。それで出会い系を使って条件に合う様々な人を探して……という。

 これは本当にひねくれたひどい考えだったと思うんですが、『ボコ恋』の頃は「こんなに孤独なら、もう自分の欲望を成就させるために他人を使ってやろう」という発想だったんです。「自分はこれをやるしかない」という気持ちで大量に連絡したけれど、そんな方法でうまくいくわけないし、繋がったと思った相手に性差別を受けたりした。この方法ではしんどいし、生きていけないなと。だったら作品や対話を通して、柔らかい方法で世界と繋がるやり方を選びたいなと。だから、単純に人と仲良くしたいということですね。

ーありがとうございます。番外編として最後に発表された、ヴァギナで自慰ができるようになる話もすごく好きです。それまでは女性みたいと思って否定していたヴァギナを使っての自慰を、肯定的に愉しめるようになったという話があっけらかんと描かれていて。

 あの最後が描けて、やっと話にオチがついたなと感じました。このテーマにふさわしい最後になったと思います。

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女の体を許すまで』ペス山ポピー

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