『孤狼の血 LEVEL2』の「悪」はどのように描かれているのか 西森路代×ハン・トンヒョン

文=カネコアキラ
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なぜ上林に共感する人たちがいるのか

西森:テーマとか細かい点の良し悪し以前の、うまさのレベルってあるじゃないですか。仕事で試写会に行ってがっくりして帰るみたいなことももちろんありますよね。ただ残酷なだけで、登場人物の関係が全然描かれていなかったり。そういう意味だと『狐狼の血 LEVEL2』はしっかりしていると思うんですよね。

ハン:あと、暴力描写は激しいし残虐ではあるけど、不愉快なシーンはないですよね。レイプも、あったという話にはなっていても直接は描かれてはいなかった。この作品、制作現場に「リスペクト・トレーニング」を取り入れたことでも話題になっていましたが、白石監督自身、「今の時代、世界のたくさんの映画祭ではレイプを直接的に描いた映画はまず受け付けてはくれない傾向が強くなっています。女性に限らず、マイノリティや弱者が虐げられる露悪的な描写も難しいと感じています。劇中に事実として存在しても描き方に配慮は必要だし、そうでないなら明確な説得力や必然性を示さないといけません」と語っています。

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西森:ちゃんと考えられてるなって思いましたね。だから、最初の上林の行動で、「うわっ」ってなりかけたけど、見ていくとただ単に残虐シーンを入れようとしている風には見えなかったのでほっとしました。

上林と日岡の戦いは最終的にフェアな感じがしたって言いましたけど……オオカミとか虎とかクマとかと人間が戦う作品には、人間と獣の間に、どこかフェアネスみたいなものが生まれるものがあると思ってて。

ハン:どういうこと?

西森:『新しき世界』のパク・フンジョン監督の『隻眼の虎』って作品がありますが、最初は人間が虎をとらえないといけない話になっているので、虎は人間の敵なんです。でも、そこにいろんな人間のエゴが絡んでくると、人間と対峙するのがアホらしくなって、動物のほうがフェアだわ!っていう風になっていくんです。登場人物が獣と戦わないといけない背景が描かれていくと、結局は組織やら権力やらに巻き込まれて、獣と戦わされているだけだったりするんです。そうすると、人間と獣の間に友情が生まれているように作品の中で描かれていく。

ハン:人間たちの方が邪悪っていう。

西森:そうです。腐敗した組織やその「犬」…っていう言い方もどうかなんですけど、まあここではずっと使われてきた言い方でいう「犬」になってる人間のほうが邪悪。『狐狼の血 LEVEL2』はそのパターンな気がして。

ハン:上林は獣なのかな?

西森:獣として描いてますよね。まあでも、私の言ってる文脈は、獣は別に人間に劣る存在というわけでも、獣が単に獣であるというのでもなく、人間のさもしさとの対極であるということを獣にたとえて描いているっていう感じではあるんですけど。あと、実は日岡も「孤狼」だし、公安の人は組織の「犬」なので…。

ハン:ところで、実は西森さんは上林が在日コリアンだって気づかなかったんですよね?

西森:そうなんです。チンタだけだと思ってて、ハンさんに言われるまで気づかなくて……。

ハン:子どもの頃の生活ぶりの描写とか、焼肉屋でソンホって呼ばれているシーンがあったり、在日だとわかるシーンはかなり散りばめられていたかと……。あとまあヤクザ映画ってことで。だから上から目線で言ってよければ、その辺についてはもうちょっと勉強した方がいいんじゃないかなーっていうか、正直少しびっくりしました。『イカゲーム』のセビョク(チョン・ホヨン)が脱北者だって気づけたのに(笑)。

西森:勉強不足は恥じるべきなんですけど、例えば、『ペパーミント・キャンディ』や『お嬢さん』に描かれている背景がわからなかったというのは、明らかに勉強不足なんですよ。なぜかっていうと、ハンさんにその背景を説明されて初めて知ることであって、それまではまったく知らなかった知識だから。でも、『イカゲーム』は、はっきりとセリフにも出てくるし、それがドラマの展開にもかなり関わってくるので、見た人で気づかなかったという人は、よっぽど早送りでもしてない限りいないと思います。

ハン:まあセビョクの例を出したのはあえてですが。上林はなぁ、わかりやすくステレオタイプな在日の記号が配置されていたように思ったんだけど……。あれ以上やったらくどい、というかむしろすでにくどい。あとくどいようですがヤクザだし。たとえば『ヤクザと憲法』にもサラッと登場しますよね。なにより日本のことだし。

西森:ステレオタイプを持たないようにしていたから気づけなかったのかもしれないです。在日にも貧乏な人もいればお金持ちの人もいて、ヤクザになる人もいればそうじゃない人もいると思ってないと非当事者としては、偏見になるじゃないですか。

『狐狼の血 LEVEL2』に描いてあることって、気づけなかっただけで、聞いたら知っていることなんですよ。でも、知っていることと実感が、すぐにつなげられないこともあるんです。『狐狼の血 LEVEL2』だったら、上林の子どもの頃の生活っぷりが、時代背景とかもあって、すぐには在日につなげられなかった。それは、貧困をすぐに在日につなげてもいけないということもありますし、もっというと、自分の知っている在日の人は、商売で成功していてお金持ちだったり、努力して頭がいい人しかいなかったというのもあった。この映画の時代のことを映画で見る以外では実際に見たり聞いたりすることが少なくて、やっぱりすぐにはわからない。だからこそ、その「在日だとわかるシーン」が点在していたのを繋げられなかったという感じだと思います。もちろん、そこに問題があらわれているとも感じます。

ハン:うーむ、なるほど……。いやこの辺は本当に聞いてみたかったので。で、別に気づかなかった西森さんを責めたいってわけじゃなくて。実際に作品を見た人たちの感想を見てみると、上林が在日だって気づかなかった人は結構いる。白石監督は冒頭で紹介したインタビューで「この映画のなかで何かしらの犠牲になっていく人たちは、『差別される側の人たち』ということが分かれば、なにか感じてもらえるんじゃないかなって」とも語っていたけど、つまりその前提が共有されていないわけですよね。だとしたらむしろその辺、もう少し丁寧に描く必要があったのではないか。難しいバランスだとは思いますが……。

作品の批評性ってお約束があってこそ伝わるものだと思うんですけど、お約束が共有されていない中でどう批評性を持たせるのかって難しい問いだなって。ただこの時代、もしかすると在日だと気づかれないことがむしろ共感ポイントにもなっていたりするのかなあ。ってのは、うがった見方か。うーん……。一応、在日コリアン表象も守備範囲である私としてはいろいろ複雑……。2021年になって、気づく人だけ気づくという「クローゼット」に戻っちゃった感……?

上林ファンもいっぱいいるし、『ジョーカー』にたとえる感想も多かった。つまり、その共感ってエスニシティ云々を超えてトラウマを抱えた者の因果律への共感ですよね。でも社会的な属性としてはマジョリティである白人男性であるアーサーとは違って、実は日本社会のマイノリティである在日コリアンの上林が広く共感されるならそれはそれでいいのかな……。作品としても必要なことでしょうし。でも不幸な生い立ちから背景を説くヴィラン物が増えているような流れがあるとしたら、それはむしろマジョリティのアイデンティティポリティクスのようなところがあって私は警戒してしまうところがなくはない。繰り返しになりますが私は悪をめぐる因果律が個人的には苦手だし、属性と結びついてしまうことで偏見につながってしまうことがありうるかと思うとやっぱり怖い。

西森:私、思うんですけど、そこがハンさんが言うところの「優等生」な非当事者が監督をしたが故なのかなとも思いまして。それは私にもあてはまるんです。

よく「傷つけるつもりではなかった」といって差別してしまう人がいますが、そんなことは理由にはならないのはもちろんのことなんですけど、知識がついていってないと「そんなつもりはなかったのに傷つけてしまった」ということになりやすいんですよね。

繰り返しになりますが、それを肯定しようというわけではありません。ただ、知識が足りなくて、自分の表現で人を傷つけないように、間違わないようにしないといけないという気持ちでなにか発言したり作った結果、その表象をあからさまにできなかったということはあると思うんですよ。だって、上林の背景をあからさまにすればするほど、上林が在日コリアンであることと悪役=ヴィランであることが結びついてしまうということもありえるわけですし。だからこそ、在日コリアンを描くときだけではなくて、さまざまなことで、知識が必要だし、学ぶしかないんですよね。

でも、最後までみれば、「上林は悪人」みたいな反発を持つようにはできてないことは、もしかしたらその「おそるおそる」背景を書いたことが、良い方向に作用しているのかもしれなくて。だから、監督がいう「この映画のなかで何かしらの犠牲になっていく人たちは、『差別される側の人たち』」であるということが、すなわち在日の人たちであるとあからさまにすることにも、また差別があるんじゃないかって考えてしまったんじゃないかなと。つまり、「差別されている人たち」が差別されることに、在日であるという属性を関係づけたくないとしたいという思いが、在日であるという箇所を最小限にしてしまったのではないかと。

ハン:なるほど……、監督がそう考えたかどうかはさておき、なんかわかるような気はします。他者表象というか、より具体的に言えば歴史的経緯も含めてこの社会のマジョリティである日本人がマイノリティである在日コリアンをどう描くかって難しいことですからね。しかも見た目に違いはないから視覚的に表現するのが難しいし。でも、これは在日コリアンに限らずですが、当事者にしか描けないというのも違う。誠実さを持ちながら、そして西森さんが言うように学びながら、どんどん描くべきだと思っています。ということでそこを描いた本作って、PCを意識するとバイオレンスなんてできない、みたいな批判への反論というか問題提起にはなっているのかなーと。

最初はびっくりして冒頭で紹介したインタビューを読んで、タブーを恐れず差別をも描く誠実なヤクザ映画としてのエクスキューズ? 監督の自己満足? しかもその設定自体が通じていないのだとしたら……? それって、前に西森さんと『お嬢さん』の対談をした時に指摘した『この世界の片隅に』の太極旗じゃん!とか思ったりもしていましたが……。で、なによりも上林の残虐さが在日という出自とイコールで結びつけられるのが怖かったんだけど、いまのところ、おそらくそのようには受け止められていないようなので、その点については成功しているんだと思います。まあこの辺は、西森さんが指摘したようなところも含めて時代的な背景もあると思っていて、機会があれば改めてもっとじっくり考えたいところです。

あと、どうして『狐狼の血 LEVEL2』について西森さんと話したかったかと言うと、ここまでの話でわかるように、上林の件について、私には「当事者性」みたいなものがあるから距離の取り方が難しくて。

西森:甘く評価もできないし、批判するなら細かいところまで見ないといけない。

ハン:それが評価の甘さにつながることはむしろほとんどないですね。で、自分が客観的ではないこともわかっているから慎重になるのはまあ仕方ないとして、考えすぎかもしれないけど、ある種の「当事者性」によって、気軽に感想をつぶやいたり評価したりできないのは不均衡だよなって感じることもあったりして。なにを言っても、結局は「在日だから」って思われちゃったりするし……。みんながみんなそうではないと思いますが、自由気ままに感想を言ったり批判したりできるマジョリティは気楽でいいよな、うらやましいなって思うときもあります。ということで、今日は話せてよかったです。

西森:ただ、さっきも言いましたが、マジョリティが気ままに映画を作ってるわけではないし、気ままに感想言ってるわけじゃないとも思います。もちろん気ままにやってる人もいると思いますが、少しでも考え始めると、これを言うと、マジョリティの気ままさになってしまうのではないか、マジョリティの気ままさは、差別になってしまうのでは、という思いもあるんだと思います。これって、いろんなことに言えることだと思って。例えば、震災を描いた朝ドラの『おかえりモネ』なんかでも、実際に震災の現場にいない人は、現場にいた人に、安易に共感することも無責任だけれど、共感できない自分でもいたくないということで悩んだり。

ハン:まあ私はそんなこと言ってないというか、さっきの「気ままなマジョリティ」には西森さんも白石監督も入っていませんし、さっき、「当事者にしか描けないというのも違う」と言ったかと。ただ、いま、西森さんが言ったようなことは、「共感」をベースにすると色々ずれていっちゃうよなというところがあって、その辺は来年出る予定の共著の本で結構話していたりするのでぜひ読んでほしいですね。

ってことで次は、さっきちらっと話に出た『イカゲーム』にしましょうか。

※次回「世界的なヒットをした『イカゲーム』の新しさと古さ」に続く(11月20日更新予定)

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