今年9月に杉田俊介さんの新刊『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』(集英社) が刊行されました。2019年に出版された『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社)の第二弾となる本書は、自身の男性性や既得権、異性との向き合い方に戸惑う男性にとって、最初に手に取るべき一冊になっています。
12月10日開催予定の『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)の著者・小川公代さんと杉田俊介さんのイベント「『男らしさ』とケア」に向けて、本書の一節「有害で有毒な男性性?」を試し読みとして掲載いたします。
杉田俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。また20代後半より障害者ヘルパーに従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『ジャパニメーションの成熟と喪失』(大月書店)、『長渕剛論−−歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)など。差別問題を考える雑誌『対抗言論』では編集委員を務める。
有害で有毒な男性性?
レイチェル・ギーザの『ボーイズ––男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(冨田直子訳、DU BOOKS、二〇一九年)は、多数派男性たちにとっても参照すべき著作です。著者はレズビアンで、常日頃から性的少数者たちのネットワークの中で暮らしていて、その中で養子としてカナダの少数民族の子を育ててきたそうです。
当然、彼女たちが育てた男の子は、性的多様性という現実を日々経験して見知っているのですが、学校の友達との関係の中では、典型的に「男らしい」振る舞いをすることもあって、ギーザはそのことに驚いています。その驚きから、この本は書きはじめられるのです。
ギーザがいうのは、男性たちの性規範や男らしさなるものは、これまではマッチョなもの、有害なものとして批判の対象にされる場合が多かったが、それらに代わる別の可能性、オルタ ナティヴな男性性のモデルについてはあまり語られてこなかった、ということです。
そこから、交差性や複合差別がデフォルトとなった状況の中で男性性の置かれた位置について、複雑な問題が論じられていくのですが、根本的に、男の子たちの未来に対する希望と愛に満ちあふれていて、こうした試みが日本の男性学や男性性研究、あるいは日常的なやりとりの中にももっとたくさんあっていいのではないか、そう思えます。
複合差別や交差性を出発点としつつ、あらためて、男性性(masculinity)について考えていくこと。保守的な男らしさでもなく、似非リベラルの優等生的な男性でもなく。マイノリティの人々の問題提起(呼びかけ)を受け止めつつ、自分の中の抵抗感や痛みをもごまかすことなく、内側から変わっていくこと。変わり続けることの中に持続的な喜びを発見できるように体質と生活を改善すること。そのような実践的な方法をマジョリティ・メンズリブと呼びたいと思います。
多数派男性たちが内側から変わっていくことは、性的マイノリティや女性たちの歴史と智慧から学び続けることとも両立します。むしろ、外部からの批判的な視点がなければ、マジョリティは変われません。自分の欲望を深く変えることでこの社会を遠くまで変えていく、という社会的正義のまっとうな実践にコミットできません。
たとえば近年、toxic masculinity(有害な男性性)という言葉をよく見るようになりました。
「ぼくらの非モテ研究会」という当事者研究的なメンズリブ集団を主宰する西井開(「『有害 な男らしさ』という言葉に潜む『意外な危うさ』を考える」、「現代ビジネス」二〇二一年一月二六日)によれば、この「有害な男性性」という言葉はもともと、アメリカの一九八〇年代から九〇年代にかけて行われた「神話的男性運動」を起源とするそうです。男性たちが女性に対する暴力に走ってしまう(=有害な男らしさを発揮してしまう)のは、父親の不在などが原因で男性たちが無力化したことにあり、「有害な男らしさ」に対する解毒剤は、適切な男らしさを教え込んでくれる父親の存在である、と見なされました。そしてスピリチュアルなワークショップや儀式などが行われました。
すなわちそこには、父権的な父親がいない家庭は不健康であり、力強い父親があってはじめて有害ではない男性性が健全に育成されていく、という「保守的で異性愛家族主義的」な価値観が埋め込まれていたのです。そして二一世紀になると、こうした傾向がさらに発展し、黒人男性、受刑者の男性、非正規雇用の男性など、《より社会の中で周辺に位置づけられる男性に偏重して「有害」というラベルが適用され》ていきました。これは「有害な男らしさ」が精神医学や心理学と結びつきながら発展してきた事実とも関わります。
ここでは、男性の「有害性」は治療によって除去しうるし、積極的に取り除いていくべきだ、 という治療モデルが前提となっており、問題は男性個人の内面にあるとされました。《結果として、非正規雇用者や黒人など周辺に追いやられた男性だけを異常な存在として見出して介入し、階級制度や人種差別の問題に着手しないまま、彼らを社会適応させる口実を「有害な男らしさ」という概念は作り出したのである》。 こうした歴史的経緯を踏まえつつ、二〇一七年から世界中にひろがった #MeToo 運動(第四波フェミニズム)の潮流の中では、「有害な男らしさ」という言葉は、周辺化された男性ではなく、特権を持った多数派の男性たち−−その象徴はトランプ前大統領や映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインのような、権力を持った白人男性です−−を批判するための言葉として拡張されていったのです。
toxic masculinityは、伝統的に「男らしさ」の美徳とされてきた要素を、正反対のネガティヴな意味でとらえるための言葉として使用されたわけです。男は我慢強く、感情を表に出さず、 弱さを覆い隠し、強くタフで、性的に活発であるべきだ……。それらの規範性に適応しようとする男性たちは、同じ論理に基づいて性差別やDVなどを正当化するのみならず、結果的に自らの心身をも損なっていく、とされたのです。
とはいえ、この言葉は、ときには男性的な要素、男性の存在の全否定になり、「男性は存在そのものが有害である」という過剰な男性嫌悪(ミサンドリー)にもなりかねません。たとえば自分の加害性や弱さに対峙し、葛藤する questioning な男性たちにとっては、男性性そのものが toxic であるとされることは、非常に残酷で懲罰的でもありえます。
西井はこの言葉が持つ危うさを、こう指摘しています。《つまり「有害な男らしさ」というラベルを他の男性に貼り付けて非難をすれば、自分を棚上げするだけでなく、「健康的」「進歩的」な男性として位置づけてより権力を強化することができるというわけだ》《その上、問題を起こした男性だけを取り上げ、彼らの「個人としての資質」を非難することで、社会全体の 制度や文化に埋め込まれた男性特権や性差別の問題を覆い隠すことが可能となる》。
ただし toxic という言葉には、有毒な、中毒性の、という意味もあるのでした。とすればこの言葉は、特定の覇権的で主流的なmasculinityに囚われ、呪縛されて、自家中毒を起こした状態、特定の男らしさに依存しすぎた状態、としても解釈できるでしょう。それが「毒」と呼ばれたのは、逆にいえば、そこには解毒剤があるはずだ、と考えられたからです。
とすれば、同時に問われねばならないのは、男性たちが特定の masculinity に過度に依存し、ほかの選択肢がない、あるいはほかの男性性をイメージすることができない、という社会的な環境・構造・制度の次元です。自分たちが自家中毒にある事実をまずは率直に認めて、多元的で柔軟で非暴力的な masculinity のモデルを探っていくこと。toxic とは、そうした問題提起型、課題発見型の言葉としても使用可能なのではないか。
もちろんすでに、有毒な男らしさだけではなく、保守的(家父長的)でマッチョな男性性、リベラルな男性性、草食系男子、オタク/非モテなどの従属的な男性性、オルトライト(ネトウヨ)、ミソジニスト/インセル……等々、男性性に関わるさまざまな規範的モデルやイメージが競合し、せめぎ合っています。しかし、それでもやはり多くの男性たちは、現在、出口のない隘路に陥っているように思えます。
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