日本の小学校や中学校で、批判的思考力を育てない理由はいくつか考えられますが、日本社会の側、つまり日本国民の多くが、そうした教育の意義や必要性を正しく理解できておらず、学校にそれを求めていないからだという事実が大きいように思います。
日本の社会では、大抵の場合、集団に属する一人一人の人間が個人として主体的に物事を考えて行動することよりも、むしろ集団の「秩序」を乱さず、集団内での地位が上の人間の言葉に疑問を抱かずに、黙って服従することが優先されます。
全体行進のように一糸乱れず、全員が同じ歩調で同じ方向を向いて、手や足の動きまで揃えた方が、集団の秩序が保たれて、よい結果を残せると信じられているからです。教師が生徒の髪や下着の色まで厳しくチェックする「ブラック校則」がいつまでたってもなくならないのも、こうした教育方針のあらわれであると言えます。
しかし、日本はかつて、このような方向性で国全体が一糸乱れず、全員が同じ方向に向かって突進し、大失敗したことがありました。1937年の日中戦争勃発から、1945年の降伏と敗戦までの、戦争の時代です。もしあの時、国民の一人一人がきちんと批判的思考の能力を持って、軍部やメディアの説明が妥当かどうかを自分の頭で考えて判断し、行動していたなら、あれほどの死者を内外で出すことなく、戦争を終わらせることができていたかもしれません。
批判的思考の能力は、それほど重大な、国の将来を左右するほどの意味を持ちます。
日本人が、政治家などの詭弁にだまされない体質に変わるためには、小学校や中学校で批判的思考を促す教育に力を入れることが必要です。そのような思考は、教師の教え方や態度に生徒が疑問を抱いたり、問題点を指摘することにも繋がるので、それを望まない校長や教師も少なくないかもしれませんが、国の将来を危うくしないためには、詭弁が詭弁であることを見抜ける、健全な批判的思考の能力を高めることが不可欠です。
また、先に述べた「秩序」との兼ね合いで言うと、日本の社会や集団では、自分より地位が高い人間が詭弁を口にした時、それを詭弁だと指摘するには並外れた勇気が必要になります。詭弁を指摘することは、人間関係で波風を立てないことが理想とされる「秩序」を乱すことになるだけでなく、詭弁を口にした人間や、それに従う多くの人間を「敵に回す」という展開にもなりかねないからです。
過去の連載でたびたび指摘してきたように、日本の報道メディアは、政治権力者らの語る詭弁に対して弱腰で、時には自らも詭弁を使って不都合な事態を乗り切ることもありました。本来のジャーナリズムは、政治権力者が詭弁を口にした時、それが詭弁であることを論理的に人々に伝える役割を担っています。そんな「監視人」のようなジャーナリズムが存在するのが、本物の民主主義国であり、権力者と報道記者の間に緊張感がある状況下では、権力者はうかつに詭弁を口にできません。
ところが、日本のメディアではある時期から、政治権力者との間で「波風を立てない秩序」を維持することが優先され、詭弁を指摘して権力者と対立することを嫌う風潮ができてしまいました。権力者の言葉が詭弁であることを立証する作業の社会的意義や公益性は理解されず、それに気づかないふりをして、詭弁をそのまま記事にしたりニュースで読み上げたりする光景が日常化しました。
このような社会的状況は、日本が民主主義国でありたいのなら、決して望ましいものではありません。詭弁を見抜くための批判的思考は、社会の倫理的崩壊(モラルハザード)を回避するためにも必要な能力であり、それを備えた国民を一人でも多く増やすことは、長いスパンで見て、公益に寄与する作業になります。
詭弁がウイルスなら、それを詭弁と見抜く批判的思考はワクチンのような存在です。
今回を含めて計13回の本連載が、詭弁ウイルスに対抗する批判的思考のワクチンを、皆さんに提供できたのであれば幸いです。今後も油断せず、社会に漂う詭弁に目を光らせていきましょう。
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