
『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)
2021年12月に松岡宗嗣さん初の単著『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)が刊行されました。2015年に起きた一橋大学アウティング事件およびその裁判の経緯を振り返りながら、アウティングやカミングアウトの実情、法制度や「プライバシー」のあり方など、アウティングの問題を理解する上で、手に取っていただきたい一冊となっています。
2022年1月9日(日)開催予定の砂川秀樹さん、松岡宗嗣さんオンライントークイベント「カミングアウトとアウティング」に向けて、第五章「アウティングの規制」より「カミングアウト『させない』ことの禁止」の節を試し読みとして掲載いたします。

松岡宗嗣
1994年愛知県名古屋市生まれ。明治大学政治経済学部卒。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する一般社団法人fair代表理事。ゲイであることをオープンにしながら、HuffPostや現代ビジネス、Yahoo!ニュース等で多様なジェンダー・セクシュアリティに関する記事を執筆。教育機関や企業、自治体等での研修・講演実績多数。2020年7月、LGBT法連合会・神谷悠一事務局長との共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)を出版。近著に『「テレビは見ない」というけれど――エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』(青弓社)、『子どもを育てられるなんて思わなかった――LGBTQと「伝統的な家族」のこれから』(山川出版社)。『あいつゲイだって――アウティングはなぜ問題なのか?』が初の単著となる。
カミングアウトを「させない」ことの禁止
国立市の条例では、アウティングの禁止、カミングアウトの強制の禁止に加えて、「カミングアウトをさせないようにすること」も禁止している(wezzy編集部注:東京都国立市は全国で初めて「アウティングの禁止」を条例に明記。さらに「カミングアウトの自由」は「個人の権利」であるとし、カミングアウトの強制やカミングアウトを「させない」ことの禁止も明記している。詳細は書籍にて)。
これは一見わかりづらいかもしれないが、例えば、職場でカミングアウトしたいと思っても、上司や人事などから制限されてしまうケースなどが想定されるだろう。
確かに、他の従業員がジェンダーやセクシュアリティに関して適切な認識を持っていない職場の場合、突然カミングアウトすることによって差別やハラスメントの被害が起きてしまう可能性は十分に考えられる。カミングアウトしたいという従業員を守るために、さまざまな角度からそのメリット・デメリットを見定めることも、ときには重要だ。その際も、勝手な決め付けはせずに、本人の意思を尊重し、本人と相談することが欠かせない。
ただ、カミングアウトしたいという本人の意思に反してその行為に制限をかける場合は、きわめて注意が必要だ。例えば、カミングアウトをしないほうが良いという懸念の中には、本人のためというよりもむしろ―あるいは本人のためという名目で―「変に問題を起こしてほしくない」といった会社/マジョリティ側の都合が隠れている場合がある。トラブルを避けたいという考えには一定の合理性はあれど、その人の重要なアイデンティティを否定し、マイノリティ個人の側に責任を押し付けることにつながってしまう可能性がある。そもそもこうした対応は、社会の差別や偏見を問い直すどころか、その温存にさえつながり得る。
性的指向や性自認が「趣味嗜好」の問題だと思われることもある現状、「そんな性的な話を会社で言う必要があるのか」「言うと他の人が変に影響されちゃうのではないか」といった反応を受けることは依然としてある。そういう「なんとなくの懸念」から、「カミングアウトはやめておいたほうが良いのでは」と思ってしまうことの背景にある社会の構造を疑わないままに、カミングアウトすることを制限ないし禁止していないか、注意が必要だ。
なお、「そんな性的な話を会社で言う必要があるのか」という発言に近いものとして、「会社は仕事をする場所であって、そもそも性のあり方は関係がない」という発言もしばしば聞かれる。私自身も、本来的には性のあり方は仕事と無関係であってほしいと思っているが、残念ながらシスジェンダーの男女二元論かつ異性愛を前提とした社会では、実はすでに多くの人が、毎日、毎秒、カミングアウトしながら生活していると言っても過言ではない、とも考えられる。どういうことか。
例えば、自分のプライベートについて話す際、パートナーの存在を「妻」や「夫」といった言葉で語ることがある。飲み会などで週末にしたデートや家族や子どもとの買い物について話すときも、異性愛であることを前提とした会話は違和感なく繰り出されている。履歴書やエントリーシートの性別欄に回答するとき、トイレや更衣室を利用するとき、制服を着用するとき、 健康診断などで男女別に振り分けられるとき―。シスジェンダーの男女二元論を前提とした扱いをされるシーンはありふれている。そして、多くの人はそこに違和感を覚えない。これはなにも職場にかぎらない。
そしてもし、そのことに違和感なくやり過ごせているのであれば、それはその人にとって常に、「私はシスジェンダーの異性愛者であること」をカミングアウトしている状態とも言えるだろう。
このように書くと、「私は別に毎日セックスについて語っているわけじゃない」と思う人もいるかもしれない。これまで、異性愛以外のセクシュアリティは、過度に「性的」とされてきたから、カミングアウトがいわゆる「下ネタ」と同じ文脈で受け取られることは多々ある。バイセクシュアルに対する「性に奔放なイメージ」も同様だし、ゲイやレズビアン 、またはトランスジェンダーの当事者がカミングアウトした際に、真っ先に「どうやってセックスをするの?」といった質問が繰り出されることを考えれば、そうしたステレオタイプは至る所で見てとることができる。
すでに確認している通り、性的指向や性自認は、その人が自身の性別をどのように認識しているか、性的な欲望や恋愛的な指向がどの性別に向き、向かないのか、といったことを表している。これは性的マイノリティにかぎらず、性的マジョリティであるシスジェンダー・異性愛者にも関係することだ。後者の場合、男性または女性という性自認を持ち、性的指向が異性に向くということになる。
本来、性的な欲望のあり方やその度合いは、性的マイノリティであるか否かには関係なく、まさに個々人によって異なる。そして、そもそもマジョリティも含めて、性について語ることは恥ずかしく、下品であるなどとタブー視されている。しかしその一方で、マジョリティの性のあり方は「普遍的」と位置付けられ、不問となり、マイノリティの性のあり方はタブー視の延長で「過度に性的」とされ、語るべきではないと位置付けられてきた。その非対称性を見落としてはいけない。
カミングアウトさせないようにする「制限」や、性のあり方が語られることへの「懸念」が一体どこからきているのか。性的マイノリティを「いないもの」として扱い続けたい、公の空間から追い出したいという意識がはたらいていないか。いま一度問い直すことが重要だろう。【『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房) 第五章より一部転載。続きは書籍にて】

『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)