
『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)
2022年1月14日(金)に、河野真太郎さんと中村香住さんによるオンライントークイベント「ディズニーの『多様性』」を開催いたします。それを受けて、河野さんの著書『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)より、第一章「『アナと雪の女王』におけるポストフェミニズムと労働」の一節「革命的フェミニスト・テクストとしての『アナと雪の女王』」を転載させていただきました。
2017年に刊行された本書は、現在第七刷と大好評。『アナ雪』から『逃げるは恥だが役に立つ』『インターステラー』まで、女性と労働についてさまざまな作品を縦横無尽に語りつく本書を、イベントをきっかけに、改めて手に取っていただければ幸いです。

河野真太郎
専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・ 文化、ジェンダーとポピュラーカルチャー。著書に『戦う姫、 働く少女』(堀之内出版)など。訳書(共訳)に『暗い世界── ウェールズ短編集』(堀之内出版)など。
革命的フェミニスト・テクストとしての『アナと雪の女王』
2013年に公開された映画『アナと雪の女王』は革命的である。
なぜなら、この映画はディズニーのプリンセスものの文法を否定するからだ。ヒロインのひとりアナは、ディズニー・プリンセスのパターンを律儀になぞっていくように見える。アレンデール王国の閉ざされた城門が開かれる戴冠式の日に、アナは「運命の人」に出会えるかもしれないと期待に胸をはずませ、お約束のようにハンス王子と衝突し、恋に落ちる。後半で、エルサの魔法で心臓が凍結しそうになったアナは、『白雪姫』と『眠れる森の美女』の伝統に従って、キスを受けるためにハンスのもとに運ばれる。しかし物語はこのすべてを小馬鹿にするように転回する。ハンスの裏切りによって。王国の十三男であるハンスは、アナに取り入ってアレンデール王国を自分のものにしようと企んでいたのだ。アナ側の物語においては、コレット・ダウリングが「シンデレラ・コンプレックス」と呼んだもの、または若桑みどりが名著『お姫様とジェンダー』で批判したお姫様イデオロギーが批判されている。つまり、女が「外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ちつづけている」(『シンデレラ・コンプレックス』32頁)ことへの批判だ。
アナの姉、「雪の女王」たるエルサの物語はさらに革命的である。なんといってもエルサは、シンデレラ願望どころかそもそもの異性愛を拒否しているように見えるのだから。エルサの魔法の力が何の寓意であるかは意見の分かれるところだが、あの力を何かの比喩としてではなく、「エルサの中にある名づけ得ぬ何か」、ジークムント・フロイトが「それ」としか呼べなかった衝動だと考えたらどうだろうか。エルサは「それ」を隠し、統御せよという死んだ父による抑圧に抵抗し、そこから解放される。エルサがアレンデールを去って雪山の中で歌う感動的な劇中歌“Let It Go”をどう訳すかは意外に難しい。「ありのままで」という日本語版の翻訳からは相当のものがこぼれ落ちている。直訳では「それを解き放とう」という意味のこの歌は、一方では「すべてのしがらみを放り出して自由になろう」というメッセージとも読める。しかし、もう一方で、“it”とはまさに「それ」、エルサのうちにある、名づけ得ぬ「それ」であり、「「それ」を解放しよう」と歌っているとも解釈できる。そして、「それ」が向かう対象は異性であるとは限らない。
エルサの物語が感動的なのは、名もなき「それ」に名前をつけよという圧力を拒否する姿が、ある種の普遍性を獲得しているからだ。エルサは父の禁止=家父長制から逃れようとする原フェミニスト的な人物でもあるし、どんな男とも関係をもたず、最終的にはアナとの姉妹愛、シスターフッドの愛に気づくという意味では家父長制を下支えする異性愛そのものも否定しているように見える。
この映画の革命性が際立つのは、もちろん物語の終結のシークエンスであろう。クリストフという「真の王子様」ではなく、エルサを命を賭して救うことを選択するアナ。この選択の後では、クリストフとの結びつきも付け足しにしか見えない。最後のスケートリンクの場面では、クリストフはトナカイのスヴェンと、エルサはアナと滑り、踊る。この映画の主題はもはや王子様との異性愛ではなく、姉妹のあいだの愛である。この風景に、従来のディズニー映画の自己否定の完成形を見るのは大げさだろうか。
しかし、この映画の革命性には二つの保留が必要である。
ひとつは、この革命が本作で突然に始まったものではなく、いわば長い革命であったことだ。シンデレラ物語の否定は『リトル・マーメイド』(1989年)『美女と野獣』(1991年)あたりからすでに始まっており、1998年の『ムーラン』において決定的な転回点を迎える。『ムーラン』は、主人公ムーランが中国の封建的な秩序に逆らって、男社会の精髄の軍隊において立身出世する、圧倒的なフェミニスト・ストーリーなのだ。『プリンセスと魔法のキス』(2009年)では財産のない王子様を、料理というスキルを持ったヒロインが支えるし、『塔の上のラプンツェル』(2010年)と『メリダとおそろしの森』(2012年)は原フェミニスト的な主題である「母娘関係」を探求する。『ラプンツェル』では擬似的な母からの解放が、『メリダ』では母のリベラルな解放と母娘の和解が描かれる。『アナ雪』は、20年近いディズニー映画の探求の完成形である。
もうひとつは、より本質的に重要な問題である。わたしたちの時代は、ここまで濫用してきた言葉、つまり「革命」によって溢れかえっているということだ。ここで言っているのは、例えば日本において郵政民営化によって新自由主義を完成させた小泉純一郎が「自民党をぶっこわす」革命児として自己を演出したことであるし、その後「日本を取り戻」した安倍晋三が、その保守的イデオロギーにもかかわらず「女性の活躍」(男女共同参画社会)を進めていることである。新自由主義は革命であった。さまざまな革命と、この新自由主義革命との区別がつかないことが、わたしたちの政治の中心的な問題のひとつであり、そのさらに中心には女性がいる。それを『アナ雪』は物語っていないか。『アナ雪』の革命と新自由主義革命とのあいだの差異と同一性を考えない限りは、この作品の評価は完成しないのではないか。この疑問を探求するにあたって、まずはこの映画を「ポストフェミニスト・テクスト」として特徴づけてみたい。(河野真太郎『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)より一部転載。続きは書籍にて)

『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)