クールジャパンで再定義された「日本人」 「日本スゴイ」の傍らで“存在しない”ことにされたものを思う

文=早川タダノリ
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 では、「クールジャパン」戦略をはじめとした「国家ブランディング」のなかで、「日本の魅力」「日本人の美意識・価値観」はどのように定義されていたのか。

 冒頭に挙げた、経済産業省『世界が驚くニッポン!』(2017年)では、大胆にもこんな宣言から始まる。

日本人らしさとは、自然観にあり
自然と一体化しようとする「自然観」、多様な「美意識」、そして「身体感覚」。多角的な観点から考えることで、日本人が見えてくる。

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 エエッと驚いてしまうが、経産省はこれを本当にパンフレットにしてしまったのだから仕方がない。『世界が驚くニッポン!』では、次のように続けている。

「日本人らしさ」とは何だろう? その核をかたちづくっているのは、日本人独特の自然観ではないだろうか。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、山国でもある。南北に長く、四季に富んだ温暖な気候、豊富な水資源、山海の幸……、自然は日本人に、さまざまな恵みを与えてきた。一方で台風、洪水、豪雪、火山、そして地震など、過酷な試練も課してきた。その中で生まれたのが、自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする独自の自然観だ。自然=克服すべき対象とみなした近代西洋の合理的自然観とは対照的だろう。

 従来からある俗流「日本文化」論のなかでも、80年代以降に(もっぱら梅原猛「森の思想」を引き合いに出しながら)繰り返されてきた、「自然と共生する日本人」というあるある展開だ。ここで言う「自然との共生」とは、例えばこんなことなのだという。

日本人は、鈴虫が鳴く“声”を聞くと、「秋がきた」と感じる。虫が自分に「話しかけている」と思う感覚があるからだ。つまり日本人は、人間を見るのと同じように自然を見て、感じる心をもっている。こうした自然との同化感覚が、自然の恵みに感謝し、謙虚であろうとする道徳、倫理観にもつながっている。自然と共生する中で、自分と自然を同化させ、“内なる自然”を育んできたのだ。日本に残る歴史的建造物を見れば、そういった“日本人らしい”心を、感じることができるだろう。

 「虫が鳴いているのを「声」と認識する日本人」とは角田忠信(東京医科歯科大学名誉教授)が『日本人の脳』(大修館書店、1978年)で発表した説だが、現在ではその実験方法などについて疑義が指摘されている。必ずしも証明されたわけではない説まで持ち出して、「自然との共生」を経産省公式パンフが謳い上げて大丈夫か?という問題なのである。

 この「日本人の自然観」から始まって、『世界が驚くニッポン』では不可解な体系が構築されている。

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 引用した謎のポンチ絵を見るとわかるように、すべてのコアに「日本人独特の自然観」が鎮座している。「日本人独特の自然観」を出発点にして、「間」「道」「和」などの諸要素が派生しているという構造をなしている。それほどまでに経産省「「世界が驚く日本」研究会」の人々は、「日本人独特の自然観」を愛していたのであろうか。

ねじこまれてきた「「日本らしさ」を再検討する意義」

 この「「世界が驚く日本」研究会」の議事要旨や配布資料は、いまも経産省の公式サイトで公開されている。集められた委員たちがそれぞれ勝手に「日本(人)らしさ」を語った第1回の会合をうけて、第2回冒頭に経産省サイドから、議論の方向性を縛るような、こんな資料が提出されていた。

これまで、経済産業省では、日本的価値を基盤とした日本のものづくりの再評価により、日本ブランドを構築するため、「日本らしさ」、「日本の根源」について検討し、提言を行ってきた。例えば、2005年7月の「新日本様式」では、「日本らしさ」の多様性の中核は「日本人の自然観」であることを示し、日本らしさを示すキーワードである「たくみのこころ」、「ふるまいのこころ」、「もてなしのこころ」を発信した。(〔経済産業省商務情報政策局〕クリエイティブ産業課*「「日本らしさ」を再検討する意義」2016年11月)*現在の「クールジャパン政策課」にあたる 

 ここで経産省クリエイティブ産業課が語っているのは、すでに「「日本らしさ」の多様性の中核は「日本人の自然観」である」とする提言を出しているんだからこの線で行け、ということだ。

 この文書に出てくる「「新日本様式」(Japanesque*Modern)の確立に向けて~世界に日本の伝統文化を再提言する~」報告書(2005年)では、「日本らしさ」の中核を次のように規定していた。

2)日本らしさの多様性の中核にある「日本人の自然観」
ⅰ)「日本人の自然観=和のこころ」 自然との共存と調和の中に美を感じ、感性を培うこころ
日本人は、四季の恵みを享受しながら、台風や地震の天変地異に苛まされる環境の中で、敬意と畏怖をもって自然と接してきた。人を自然の一部と意識し、生命との関係を尊びながら、自然との共存と調和の中に美を感じ、感性を培う自然観が我が国の伝統文化の根底にある。

 先に引用した『世界が驚くニッポン!』(2017年)とまるっきりそっくりであきれかえる。いずれも「自然との共存」「自然との共生」が「日本らしさ」のキモとして挙げているところで共通している。なんだかこれが、経産省の公式見解であるかのようにも見えてくる。

なぜか「自然と共生」してしまう日本人

 それにしても、「日本人の独特の自然観」としての「自然との共生」が好きすぎるぞ経産省、だ。

 そもそも、「日本人らしさ」のような本質的な「核」はホントにあるのかと、立ち止まってよく考えてみる必要がある。これは、ある特定の文化圏にいる人間には同じ性質や特質があるとする「文化本質主義」と呼ばれる考え方だ。

 しかもここで言われている「日本人」も、まったく無規定に使われている。「日本人」とはせいぜい法的に日本国籍をもっている人びとをざっくり指す概念にすぎないはずが、いつの間にか縄文時代以来の「日本文化」を意識の深層にもつ「日本民族」のようなものとして使われている。

 総理大臣から詐欺師・放火魔・人殺しまで、混沌とした人間集団である「日本人」を、もしも日本に住んでいるエスニック・グループ(日本民族?)の意味で使っていたとしても、一億数千万人の混沌とした人間集団にアンケートを取って、共通するなんらかの「日本人らしさ」を抽出することは不可能に近い。

 にもかかわらず「日本らしさの中核」という、すべての「日本人」に通底する本質的なものがあるかのように描き出すのだが、しかし実際は都合のいいキーワード(例えば今回の場合は「自然観」だが、「甘え」とか「礼儀正しさ」とか「ゴミを拾う」などなどテキトーなものがこの位置を占める)を論証ヌキにあてはめているのにすぎない。

 国家ブランディング、あるいは「クールジャパン」戦略に露呈している、一昔前の「日本文化論」的な展開について、渡辺靖・慶応大学教授は次のように批判している。

例えば、「日本の国家ブランドを確立する」にしても、既視感のある、かつての「日本文化論」の焼き直しに近い議論が繰り返されることになる。曰く、「外来文化を融合しながら独自の文化を発展させている」「自然との調和や共生を重んじている」「現代と伝統を融合している」と。しかし、こうした特質は多かれ少なかれどの社会にも認められるものであるし、逆に、こうした特質と正反対を指し示すような事実や現象も少なくない(「海や山を汚し続けてきたのが日本の伝統だ」と批判することも可能だ)。
加えて、地域差、階層差、男女差、世代差といった点を考慮すると、そもそもある特質を「日本」という大きな(ナショナルな)カテゴリーで括るのが妥当か疑わしいケースも多い。(『文化と外交』中公新書、2011年、192頁)

 これは「日本(人)らしさ」再定義の方法に関わる批判として、まことに正鵠を射ていると言えよう。

 けれども同時に、2010年代の「日本スゴイ」ブームの中で、経産省の報告書群に見られたような雑すぎる「自然と共生する日本人」論は、単に「日本」ブランドづくりといったナショナル・ディプロマシーの世界だけではなく、出版やテレビ、ネットなどのメディア上で大流行した。

 「日本人の自然観」を西欧に対する優位性として称揚する言説は、志賀重昂『日本風景論』(1894年)および芳賀矢一『国民性十論』(1907年)以来の歴史を持っている。さらに和辻哲郎『風土』や(時代は下るが)梅原猛「森の思想」などの蓄積を通じて、「日本文化論」の基盤を形成してきた思想でもある。そうした系譜の中に、「日本人らしさとは、自然観にあり」(『世界が驚くニッポン!』)という2010年代の「日本スゴイ」イデオロギーを位置づけ、その方法も含めて批判的に検討していく必要があるだろう。

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