女子教育問題にもつながる、稚拙でめちゃくちゃな日本の教育民営化政策

文=畠山勝太
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日本の女子教育政策の失敗と教育の民営化の失敗

 日本の教育の民営化政策が、60年前に行われたフリードマンの議論よりも稚拙な理由は、歴史的な背景があります。大雑把に言ってしまえば高校・大学教育需要の急激な拡大に対して、政府が仕事をすることを諦め、民間に丸投げしたというものです。

 これは、大学の授業料が日本と比べて極めて高い印象があり、かつアイビーリーグなど私立大学の印象が強い米国でも学生の75%が公立大学にいるのに比べて、日本では逆に学生の75%が私立大学にいるという状況にも象徴されています。

 他の先進国では日本と近い時期に、女子学生の急増という形で大学教育需要の拡大が起こりました。日本はこれに私立・文系(理系の学部創設は、初期費用が高い)の増設という形で応えて現在に至ります。

 日本は、女子の大学・大学院進学率が低いことに加えて、女子学生が国公立大学および理系分野で少ないのが現状です。こうした状況が意味するのは、社会に出る前の段階で公教育支出の恩恵に男女間の格差が生じている、ということです。このことは以前、東京大学の女子学生向けの家賃補助金の是非の所でお話しました

 社会に出る前の段階で公的資金による支援額に男女間格差があれば、それはよほどの事がない限り社会に出てからの男女間格差にも結び付いてしまいますし、社会に出てからの男女間格差解消のための公的な支援を打ち消すものになってしまいます。事実、今の日本社会を見るとそのようになっているように見えます。

 また、今年話題となった都立高校男女別定員制も、同じ延長線上にある問題です。様々な議論が錯綜した結果、「定員性を設けることで女子が不利益を被っている。これは女子差別である」という主張が多くみられました。

 女子教育について何度も議論してきた私がこの問題に触れずにきたのは、本質は私立学校をどのように扱うのかであると考えていたためです(私がそのように考えた理由は、この問題の歴史的背景が解説されたこちらの論文にまとめられています)。男女間格差は確かに問題ですが、日本の稚拙な教育民営化政策というより根深い問題があることを見過ごしてはいけません。

まとめ

 ここまで述べてきた通り、日本が教育の民営化に対してまともに向き合ってこなかった結果、女子教育の問題と結びついてしまったと私は考えています。

 しかし、教育の民営化を本来どうすべきだったのかはある程度分かっても、これからどうしていくべきなのかは、冒頭でも述べたように、私もよく分かりません。そもそも論として、東大に進学する女子の少なくない数が女子の中高一貫校出身者(これは女子校が効果的という因果関係ではなく、相関関係に過ぎない可能性が高い点は留意が必要です)ということを踏まえても、私立の共学・別学に対して政策的に介入すべきなのか否かすら、今の私にはよく分かりません。

 私立学校に対する介入としてパッと思い浮かぶのは、定員の何割かを特定の層の学生・生徒に割り当てさせるというクオータ制です。しかしインドの私立学校で貧困削減を目的としたこの政策は大滑りしました。さらに、アメリカの大学で社会規範的に行われているクオータ制によって、現在私がいるような教育学部の建物に女性ばかり溢れている現状をみると、制度自体は簡単に作れてもその運用がかなり難しいことが予想されます。

 東大の家賃補助の所で議論したように、国公立学校での奨学金はある程度正当化されうる政策ですが、ミルトン・フリードマンが主張したような私立学校への奨学金という政策介入は、どうなるのか正直予想がつきません。

 我が子に合った教育・より良い教育を受けさせるために私立学校を選択するのは、当然の権利です。ただ、これは保護者の権利ではなく、子供の権利なのは見過ごしてはいけないポイントではあります。また、ミルトン・フリードマンの議論に立ち返れば、安定的で民主的な社会を維持するための共通の価値観が保障され、階級格差が悪化しない限り、という限定がつくはずです。

 これらを踏まえた時に、繰り返しになりますが、あるべき私立学校・女子教育政策がどうであるのか今の私には分かりません。分からないのですが、ぜひ読者の皆さん一人ひとりにも、この問題から目を背けずに悩んでもらいたいなと思います。

 次回は、この教育の民営化の究極の問題である、障害児・特殊な教育ニーズを持つ子供達の教育について、私と一緒に悩んでもらおうと思います。

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