『セックス・アンド・ザ・シティ』の新シリーズ『And Just Like That…セックス・アンド・ザ・シティ新章』のストリーミングが日本でも始まった(12月29日 U-NEXT)。
アメリカではすでに第3エピソードまで進んでいるのだけれど、初回の冒頭からオリジナル・シリーズとは全く異なる大きな変化に気付かされた。主役の1人であったサマンサ(キム・キャトラル)の欠場ではない。ミスター・ビッグを演じるクリス・ノスの実生活でのセクシュアル・ハラスメント・スキャンダルでもない。思いっきりの「多様性」をストーリーの主軸にねじ込んであるのだ。オリジナルの最終回からほぼ18年、時代の変化を感じずにはいられない。
ネタバレになることは書かないが、キャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)、ミランダ(シンシア・ニクソン)、シャーロット(クリスティン・デイヴィス)にそれぞれ人種マイノリティ、もしくはジェンダー/セクシュアル・マイノリティの友人が出来る。注意深く観ていると、レストランの客などエキストラもマイノリティが目立つ位置に配置されていたりする。
主役3人にマイノリティの”友人”をこれでもか!と言うほどグリグリと強烈にあてがうので正直、違和感を覚えた。……が、これは人気番組における「社会の投影」の役割として重要なのではないかと思い直した。
白人女性4人がわずかの例外を除いてほぼ白人のみのサークルの中で生きる『セックス・アンド・ザ・シティ』(1998-2004)は、当時も「多様性が足りない」と批判された。けれど4人の世界の描写は、実は現実の反映だった。ニューヨークは言うまでもなく多様性の都市であり、人種民族であれ、性的指向であれ、ここに存在しないカテゴリーの人はおそらくいないのではないだろうか。街を歩くだけであらゆる人たちとすれ違うし、同僚、クラスメート、お店やレストランで働く人、近所の住人など、何らかのコミュニケーションを取る相手にも必ずマイノリティがいる。けれど多くの場合、親しく付き合う相手は自分と同じカテゴリーの人となってしまう。どのグループも文化的もしくは歴史的に異なる背景を持ち、人種民族グループに至っては居住地域まで分かれてしまっている。特定のグループ間にはある種の緊張感すらあるし、なにより人は同胞、同族といるのが心地よいものだ。
つまり、真の意味での多様性の実現は、そう簡単ではないのだ。だからこそ『セックス・アンド・ザ・シティ新章』の、強引とも言える多様性展開はアメリカに多様性を広げる助けになるかもしれない。なぜなら『セックス・アンド・ザ・シティ』は全米の視聴者にオシャレで自由で奔放(相当な誇張があるにせよ)なニューヨークへの憧れを抱かせた。社会現象にまでなった、あの絶大な影響力が今も持続しているとすれば、『セックス・アンド・ザ・シティ新章』の多様性の取り込みも機能する可能性がある。
カタログ・モデルの多様化
『セックス・アンド・ザ・シティ新章』を観てこんなことを考えたのは、もう何年もずっと広告のモデルを見続けてきたからだ。
ランズエンドは「アメリカ最大級の上質カジュアル・ファッション・ブランド」として日本にも進出しているが、アメリカでの初期の顧客ターゲットは白人の中年層であり、カタログに起用されるモデルもかつてはほとんどが白人だった。
やがて時代は移り変わり、いつの間にか黒人やアジア系など人種マイノリティのモデルが登場するようになった。続いて女性プラスサイズのモデルが加わり、今秋のカタログ(一度ネットで注文すると紙のカタログが届くようになる!)には、なんと黒人男性のプラスサイズ・モデルがいて、びっくりさせられた。黒人男性モデルは細身、または引きしまった体型のハンサムが相場なのに、いかにも人の良さげなぽっちゃりした男性が、笑顔でキツネ柄のパジャマを着ているのだ!
同じくランズエンドの子供服のカタログには、さらに驚かされた。ダウン症の女の子、車イスの男の子、左腕の肘から先がない女の子がモデルとして起用されている。片腕欠損の女の子は小学校の高学年くらいに見える。パステルカラーの半袖のTシャツを着(つまり肘から先がないことがはっきりとわかる)、オレンジ色のヘッドフォンを首にかけ、右手にはノートとペンを持っている。ごく当たり前に通学している雰囲気と自然なスマイルが逆にショッキングだった。実社会で見掛けても特に驚かないはずの障害者を、最先端を狙う尖ったブランドではなく、ランズエンドのような保守的とも言えるブランドのモデルとして見るのが初めてだったからこその驚きだった。
このカタログも『セックス・アンド・ザ・シティ新章』と同じ機能を果たすのではないかと思う。こと人種に限れば、アメリカにはスモールタウンと呼ばれる、ほぼ白人しか暮らしていない小さな町や村が無数にあり、その総人口は大都市の人口を上回る。日常生活の範疇にマイノリティがほとんど存在しない多くの人たちにとって、広告やカタログはテレビ、映画と共に自国の異なる側を知る機会になり得るはずだ(それとも「リアリティの欠如」と映るのだろうか)。
インターセクショナリティ
上記の障害のある子役モデルたちは、「インターセクショナリティ(Intersectionality)」をも表している。複数のマイノリティ要素(差別や抑圧される可能性のある要素)を併せ持つことによって、それらが交差して複雑な困難となることを表し、日本語では「交差性」などと訳されている。
片腕のないモデルの少女はアジア系で、車イスの少年はドレッドロックスの黒人。2人とも障害者というマイノリティであると同時に、アメリカでは人種マイノリティでもある。
例えば、この少女が将来、障害者の抱える問題を語り合うグループに参加したとして、その場ではアメリカにおけるアジア系の抱える困難は語り合われない。アジア系の人権を考えるグループに参加しても、そこでは障害者に特化した問題は解決されない。そもそも少女は女性であり、障害者であってもなくても、アジア系であってもなくても、女性として対峙する問題もある。つまり彼女はアジア系の中でも女性として殊更に差別されるかもしれず、アジア系の中にあっても障害者としてさらなる苦労を強いられるかもしれない。さらには3つの全てが複合した問題が持ち上がる可能性もある。
他にもジェンダー、性的指向、体型、社会階層、所得、職業、移民、外観からはわからない疾病など多くの要素が差別の対象となりえる。『セックス・アンド・ザ・シティ新章』にも少なくとも3つの要素を持つ登場人物が新たに加わっている。
こうしたマイノリティの複雑な問題は誰もが一度はきちんと学ぶべきだが(学校が理想的と思われる)、それとは別に娯楽作品やカラフルな広告を通して「マイノリティは当たり前の存在」と認識していく必要もある。実のところ、それは他者の学びのためなどではない。あらゆる種類のマイノリティもまた社会の一員であるのだから、自分の投影としてドラマや映画の登場人物やモデルとして見たい。それに尽きるのかもしれない。「リプレゼンテーション・マターズ(Representation Matters)」なのである。
(堂本かおる)