メンタルヘルスの「パンドラの箱」に希望は残っているのか

文=みわよしこ
【この記事のキーワード】

8. 心神喪失だから無罪、心神耗弱のはずなのに死刑執行

 2021年は、法的責任能力とメンタルヘルスに関する日本の矛盾が明らかになった年でもある。

 11月、2017年に祖父母ら5人を殺傷した30歳の男性に対し、心神喪失状態だった可能性を考慮した無罪判決が神戸地裁で言い渡された(検察が判決を不服として控訴したため、確定していない)。

 12月、3人の死刑囚に対して死刑が執行された。3人のうち1人は、2004年に7人を殺害した65歳の男性だった。男性には複数回の精神鑑定が行われ、結果はすべて心神耗弱だったのだが、地裁・高裁・最高裁は、いずれも完全責任能力を前提として死刑判決を下した。死刑が執行された現在となっては、本人の責任能力は確認できない。

 心神喪失または心神耗弱によって法的責任能力が失われていた可能性を考慮する理由は、3歳児を成人同様に扱うことが適切ではない理由と共通している。「自転車の前カゴに置き去りにされている現金1万円入りの財布を我が物にする」という行為の意味は、その人が3歳なのか13歳なのか23歳なのかで全く異なる。少なくとも、「他者」「所有」という概念を持っているかどうか疑わしい3歳児を、窃盗罪に問うわけにはいかないだろう。

 完全な法的責任能力がなかった人、言い換えれば「その時、善悪をわきまえた『成人』と言える状態ではなかった人」は、3歳児の財布持ち去りを窃盗罪に問えないのと同じ理由で、成人を前提とした刑事司法の対象から外される。現在の日本の法律の建て付けは、そうなっている。

 しかし、この考え方は時代遅れになりつつある。国連障害者権利条約は、障害者の「すべての者との平等」を目標としている。成人に完全な法的責任能力があるのなら、障害を持つ成人にも完全な法的責任能力がなくてはならない。精神障害や知的障害等によって状況把握や判断が阻害されている場合でも、完全な法的責任能力を発揮できるようにすることが社会の責務である。この条約を2014年に締結している日本において、法的責任能力に関する「すべての者との平等」が実現するのは、何十年かかろうが「時間の問題」だ。

 1つの無罪判決、そして1人に対する死刑執行は、過渡期に入りかけた2021年の日本の矛盾を示している。

9. 京都ALS女性嘱託殺人

 事件そのものは2019年に発生したが、2021年も日本のメンタルヘルスの今後にとって重要な出来事が続いているため、敢えて1項目を設けたい。

 2019年、京都で介護を受けながら単身生活を送っていた女性ALS患者が、安楽死したい意向をSNS等で述べたところ、2人の医師に有償での自殺幇助を持ちかけられた。女性は130万円を医師の口座に振り込み、希望通りに鎮静剤の大量投与を受け、そして死亡した。女性は数年にわたって、介助を受けなくては生きられない辛さや安楽死への希望をSNS等で語っていた。疾患と介助によって女性のメンタルヘルスが損なわれていた可能性は高い。それにしても、生活保護で暮らしていた女性が、どのように130万円を用意したのか。自ら銀行のATMを操作する身体能力はないのに、どのように130万円を振り込んだのか。事件の核心に近い重要な事実の数々は、未だ明らかにされていない。

 事件は、2020年7月に公表された。医師2名は既に逮捕され、起訴されている。公判は未だ開始されていないが、2021年、2名の医師の余罪は次々に明らかにされた。たとえば2021年5月には、2011年に医師の1人・Y医師の父親(当時77歳)を殺害した容疑により、共謀したとされるY医師の母親とともに殺人容疑で逮捕された。しかし、物証はない。殺害方法は明らかにされておらず、「何らかの方法により」とされている。証拠とされたのは、Y医師と母親のメッセージのやりとりである。このような逮捕が認められるのなら、「あいつ呪い殺してやりたい」とSNSに書き込んだ直後に当該人物が頓死したら、殺人容疑で逮捕されることを怖れなくてはならないではないか。

 さらに2021年12月、厚労省はY医師の医師免許を取り消した。Y医師は、韓国で医師免許を取得したとして、2009年に厚労省に申請して日本の医師国家試験を受験し、合格して医師免許を取得した。しかし韓国で医師免許を取得したという事実はなく、受験にあたって厚労省に提出すべき韓国の書類も提出されていなかったという。当時の厚労省の関係者は、何らかの根拠と判断によって受験を認めたはずだが、厚労省の調べでは経緯不明のままだ。

 一度、何らかの逸脱を犯した人物に対しては、これでもかこれでもかと負のレッテルが重ねられる。そのレッテルの根拠は必ずしも明確ではなく、責任の所在はあいまいだ。しかし、その人物の犯した逸脱がある限り、どのような負のレッテル貼りも非難されない。

 生きるための介助によってメンタルヘルスが損なわれる状況、安楽死に希望を見出すような状況は、やがて高齢になり介助を必要とするはずの全ての人々が直面する可能性のある未来像だ。そして、これこそが事件の最大の背景であろう。

筆者は、Y医師の異常さが強調されるたびに不安を覚える。「生きたい」「できれば、より自分らしく生きたい」という希望が叶わなかったALS女性患者の状況は、日本の多くの人々に迫る自らの未来像なのだ。しかし日本の現政権は、「おかしな人がいたから起こった、おかしな事件」ということにしたいのではないだろうか。そのために、Y医師の異常さを次々に発掘して報道させているのではないだろうか。「下衆の勘繰り」かもしれないが、この状況は筆者のメンタルヘルスにとって好ましくない。

10. なぜ、心療内科クリニックは放火されたのか

 2021年のメンタルヘルス事件として、12月17日の大阪北新地ビル火災を取り上げないわけにはいかないだろう。

 大阪市北区の雑居ビルの4階にあるメンタルクリニックに、数年前から通院していた60代の患者男性が、ガソリンを用いて放火した。このクリニックでは、リワークプログラムなどグループで行う活動を積極的に行っており、この日もプログラム参加者多数がクリニックを訪れていた。放火は脱出経路を塞ぐ形で行われ、25名が死亡、男性を含む3名が負傷した。男性は救命されたが、脳の損傷により聴取は困難であると報道されている。

 この事件は、まだ捜査途上にある。クリニック内の資料等が火災の被害を受けたため、放火した男性の診断名など、重要な情報の多くが未だ報道されていない。しかし現時点でも、今後の流れに関して注意すべきポイントは数多い。

 筆者が最も要注意であると考えているのは、「良くないメンヘラが良いメンヘラ多数と医療スタッフと医師を殺傷した」という構造である。起こった事件を現象面から見れば、まったくその通りだ。そして数多くの報道が、この構造を強化し続けている。

 死傷した他の患者たちについては、生前の「努力家」「心優しい」といった人物像が好意的に報道されている。そうはいっても、メンタルクリニックを必要とするメンタルヘルス上の課題があり、休職中であったり失業中であったりした人々である。相模原障害者殺傷事件の植松聖死刑囚の表現を借りれば、「生産性がない」あるいは「生産性が低い」状態にあった。しかし、その状況は、「誰にでも起こりうるかも」「そういう時期もあっていいはず」という共感とともに受け止められている。「メンタルクリニックに通っているような人」というスティグマ視が少ないことは、救いである。

 放火した男性に関しては、好意的な人物像がほとんど見当たらない。元雇用主の「真面目で腕のいい職人だった」という語りが、ほぼ唯一のものだ。家族を殺傷しようと試みて殺人未遂容疑で逮捕された前歴、刑務所での受刑歴、社会的孤立状態にあった可能性も報道されている。そこに「被害妄想」「アルコール依存症」といった用語が混じる。今後、「なぜ、こんな危険人物を“野放し”にしておいたのか」という世論が高まり政治利用される可能性は、極めて高い。近隣住民や精神医療福祉が本人を取り囲む「社会的包摂」によって、本人の社会的孤立を解消すればよかったのだろうか? それは、本人にとっては自尊心をえぐられ続ける監視や軟禁のようなものだ。他者への攻撃は自傷や自殺に転化する可能性が高まり、結果として抑制できるかもしれないが、それを「社会的包摂」と呼ぶのは欺瞞であろう。

 もちろん筆者自身、このような事件に自分や大切な人々が巻き込まれて命を落とすような事態は避けたい。殺人や放火に至らないストレスフルな人間関係や会話も、避けたり減らしたりしたい場面がある。「メンヘラ」や「サイコさん」であろうがなかろうが、自分が受け入れられる狭い範囲でだけ付き合いたい人物は、間違いなく存在する。おそらく、これは人類にほぼ共通する望みだろう。しかし、誰もが自分の周囲の人間関係をコントロールし、付き合いたい人とだけ付き合うことを徹底すると、結果として社会的排除が行われることになる。その次に訪れるのは、排除された人々からの復讐に対する底知れない怖れである。

 今日、日常を生きて明日のために眠るためには、ある程度の安心が必要だ。危険なフラグやレッテルを遠ざけ、何らかのバリアを設けて接近を防げば、とりあえずの安心が手に入る。しかし、かりそめの安心を強引に維持し続けると、遠ざけて排除した誰かまたは何かによって、いつか突然覆されるものだ。「平凡でささやかな日常の幸せが奪われた」というタイプの事件の多くは、この図式で説明できる。

 似たような事件の再来を防ぐために最も有効な対策は、個人や小コミュニティにとっての「安心のために一定の排除をしたい」「排除への復讐は不安だ」というジレンマを抱え続けていくことではないだろうか。このジレンマが、遠回りながら着実な歩みを可能にするのではないだろうか。筆者には、そう思われてならない。

 今、必要とされているのは、「良くないメンヘラが良いメンヘラ多数と医療スタッフと医師を殺傷した」という事件の構造を、意図的に脱構築することであろう。

1 2 3

「メンタルヘルスの「パンドラの箱」に希望は残っているのか」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。