SNS投稿のご遠慮願いと「贅沢な」隔離メシ
検疫所宿泊施設について新しい点は「SNS投稿のご遠慮願い」だ。これは宿泊施設格差の不満を抑えるためだろうが、誓約書のように検疫法に基づいている「要請」でもなく根拠も不明で、そもそも税金が投入された公的な措置・施設でもある。今までSNSで「#隔離メシ」を代表とする不満、それはつまり強制隔離者の「御願い」が表明されてきたわけだ。これにより改善された点は多い。このようなコミュニケーション回路を経ち、入国隔離を不可視にすることには承服できない[*1]。
この文面には日本の防疫の「曖昧さ」が見え隠れする。この文言中の「待機施設内の様子などをSNSや動画サイト等に……」で「など(等)」が二回出てくることに着目したい。この範囲は明示されずに、自分で考えてほしいという。書籍や新聞記事、あるいはこのようなネット記事ならOKなのか「など」、よく分からない。
隔離施設において、今回アップデートされていたのは、出前注文のシステムだった。出前を注文した際の施設側の受け取り場が指定され、それが「部屋の前」に届けられる。書籍などの物品については、逐一、確認の内線がかかってきて中身を「申告」する。前回は立ち会いの下での検査があったが、当たり前の言葉が当たり前に届き、当たり前の結果として撤廃されたのだろう(ただし関空到着では検品されたという話も漏れ聞く)。
検疫所宿泊施設の食事は、揚げ物のオンパレードで残念ながら全食完食は無理だった。これは憶測にすぎないが、個人的な出前システムが整えられた今、これを前提としつつ「量が少ない」という非難を退けるための措置かもしれない。もちろん大量の食料廃棄を前提とした態勢であり、批判もありだろう。ただ、これは「最大公約数的な対応」が採用された結果である。
*1 ちなみに「要請」を無視し続けた場合 はアルファベットで氏名が公表される。これは「ご遠慮願い」なので問題なかろうが、お節介ながら記しておくと、私は「YANAGIHARA NOBUHIRO、出発国:ドイツ、40代、東京都」である。
「ひげ剃り」は注文できない
1月1日、私は部屋で2022年を迎えた。あまり寝られなかったので初日の出を品川プリンスホテル28階から眺められたのはかけがえなき思い出だ。心機一転、6日間の強制隔離も折り返しを迎えていたことから、某通販サイトでひげ剃りを注文した。内線で「ひげ剃り」が届くことを伝えると、「ひげ剃り注文」は禁止されているという。理由は危険物だということ。なお、酒類は前回同様に入所案内に明記されているが、2022年1月時点で「ひげ剃り」は書かれていない。もしかすると今後は文言が増えているかもしれない。
相談所に内線をかけて色々と話すと、担当のバイトの方は申し訳なさそうに「そういうルールなので……」と。ただし、前回も紹介した新型インフルエンザ等対策特別措置法の第五条「基本的人権の尊重」を伝えて、衛生的に生きることは人が普通に生きるってことではないかと質問した。すると、受話器はすぐさま相談室の上司に。「面倒なやつ」は上司担当ということだ。しかし、この「上司」でさえ派遣あるいはバイトの方らしく、詳細は検疫所担当官に質問するという。担当官と直接的に話す機会は得られぬまま伝言ゲームが続いた。「ひげ剃り」が禁止されていた理由は、6日間の強制隔離で気が滅入り、自殺のリスクを排除するってことらしい。この認識が担当者から明言された点は大きい。つまり、少なくとも「隔離は精神的苦痛を与えている」と認識されているのである。
日本とドイツの相違点と共通点
日独を往復するなかで、日独の社会の違いと共通点がコロナ対策から浮かび上がってきた。
日本の特性はすでに述べてきたことをまとめるだけでよいかと思う。「ひげ剃り」の下りもそうだが、隔離者から質問・要望についての対応先がどんどんと変わっていく。私は、これを「ソフトパワーによる防疫」と呼びたい。「ソフトな権力」と言ってもよいだろうか。責任の所在がうまくぼやかされており、私たち帰国者の解釈や自助に帰するようにコントロールされている点が周到だ。これらは意図してか、意図せずか、そもそも日本の社会構造がこうなっているためか、そのあたりは今後の検討を要する。しかし確実に「感情コントール的」ではあったと言える。要請や御願いでは、表では明言されない「適切さ」を自ら考えねばならない。同時に「ソフト」に責任体系がぼやかされている。入国隔離をめぐって、取材もかねて色々と訊くと「それは貴方の感じ方です」と「実はそこまでは要請してませんよ」という返答を幾度となく耳にした。これは善し悪しというよりは、日独を比較すれば、これは日本の「上手さ」とも言えるかもしれない。
この日本の「ソフト」な感染症対策に対して、ドイツは「ハード」な対策だったといえよう。ロックダウン然り。同時に「ハード」に、あるいはハッキリと対象が認識されることで争点化した。たとえば、ドイツではワクチン接種義務化の抗議デモが起き、私の滞在期間中もミュンヒェンでは5,000人ほどが集まったという。州政府の「接種証明・回復証明の義務化」に対して、市の裁判所は大学への適用は教育機会の観点から違法だとした[*2]。
次に、「数字の扱い」についてである。ドイツでは検査が数多くなされ、数値もまた日本と同様にテレビで喧伝された。しかし、2021年と22年では、感染者「数」の意味合いがワクチン接種後や重症化率の観点から、変化してきている。この数値の「読み替え」には、数字を重視したからこそ苦慮している。これは日本も同じだ。
また、ドイツは「科学」への過信によって首を絞められている側面もある。バイエルン州ミュンヒェンの学校では週に2~3回の検査が行われていたり、未接種者(子どもたちが多い)は地下鉄乗車前に検査をしたりしていた(2021年末時点)。端的に言えば「検査大国」だ。検査にせよ、ワクチンにせよ、ドイツの政治サイドは前のめりだ。コロナ対策は「善いこと」として当然視されることに加えて、関連業界も潤うことから、マスク・ワクチン・検査を渾然一体とした政策が推し進められている。しかしながら、マスク利権問題などのスキャンダルは後を絶たない。
対して、日本は前述のように感情主導の「ソフト」路線で、いわばショック療法的な感染症対策を進めた。コスト面でも政治面でもリスクの少ない「要請」で済ますためには、一部の集団・地域などを「敵/的」として、「けしからん」という感情を利用して防疫を行った。その「敵」のひとつが入国者だったわけだ。たとえば、私のドイツ滞在期間は10日間で、「過去14日の滞在場所」には日本も含まれるわけで、日本で感染している可能性も理屈のうえではゼロでは無い。しかし、空港で「日本」と記入しようとしたが「それは書かなくてよい」との指示が入った。あくまでウイルスは「外」から入ってくるのである。
他にも至るところで感情コントロール的な措置がとられている。インストールが誓約させられる入国者管理用のアプリでは、一日に二回、背景を入れて自分を録画する。自室という私的空間を撮影する根拠は不明だ。また、「待機場所から離れている」と脅しめいた文面が届く。これは私の部屋内なので「一定距離の移動」とはどういうことだろうか。なお、私のアパートは6畳くらいである。
以上、日独比較のための基礎情報を提示したが、両者で重なる点もあるだろう。たとえば、感染者数がいったん減じた状況を体験した人びとの多くは、当初の危機感あふれる時点になかなか戻れなくなった。2021年末、ドイツではハグをする人びとを何度も見かけたし、州が年越し花火を禁止しても花火の爆音は街中で鳴り止まなかった。さらに一部では、彼らを「我慢できない者」とみなさなくなった。日本でも都市部では人流が多い。オミクロン株が強い感染力を持っているのは知っているが、「知っていても」、2022年1月初旬の三連休を多くの人が愉しんだ。これは、約2年間のコロナ意識が、ワクチン接種などを経て変化してきたということだ。
最後に、世界的な問題として取り上げたいのが隔離の特権性についてである。
私は、入国隔離を「人としての当たり前」が制限されていると考えて意見してきた。しかし、この私の見方も突き放して考えてみれば違って見えてくる。前回の記事で市民社会の断裂について触れたが、パンデミック下においては「移動しなくてもよいこと」は特権である。宿泊施設での6日間、そしてトータルすれば14日間、移動なしで済ませられるということ。これは時間的・金銭的に余裕がないと難しい。同時に、空港での書類確認や検疫所宿泊施設で働いていた人びとは、報酬をもらっているとはいえ時間給であり、中抜きもされているだろう。確実に「ケア・ワーク」である。ドイツでもエッセンシャル・ワークの労働環境にかかってくるストレスは問題視されている。金銭的な面だけではなく、「ケア」で要求される感情面がコロナ禍で今まで以上にすり減る。
隔離先の揚げ物が連続するお弁当は確かに「苛烈」だった。そこで出前が頼めると楽観視すると、「届ける仕事をする人」への想像は閑却される。これがどうしても心に引っかかったので、私は出前を取らなかったのである。
前の記事では、『コロナの時代の歴史学』(績文堂出版、2020年)を引き合いに出して、社会の亀裂に触れたので、最後にこれだけは付け加えておきたい。先述のように、政府にも「入国隔離は精神を病ませる」という認識があった。そして「隔離」の要請は、宿泊施設名の秘密化、様子をSNSにアップしないお願いなど拡大してきた。このように帰国隔離を「見えないこと」として扱うことで、新型コロナウイルス感染症とは別の「病」に罹ってきたのは社会の方だったのかもしれない。私の学ぶ歴史学をはじめ人文・社会科学は、医学ではないが、その病理の解明に貢献すると考えている。
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